横開きの扉をいつものように音を立てずに開ける。勝手知ったる他人の家、というわけではないけれど、生まれてからこの方何度訪れたかすら覚えていないこの家のことは、間取りから食器棚のどこにお茶碗があるのか……なんていう細かいところまで知っている。
そして、多分、にーくんも私の家の食器棚内の配置やら冷蔵庫のしまい方やらを、知り尽くしているんだろう。互いに、家のスペアキーの隠し場所を知り、勝手に家に押し入る(そして一緒に食事を作ったりもする)仲だし。
「おじゃましますよー」
靴を脱ぎながら、軽い調子で言う。この時間は、たいていにーくんしかいない(あの家の子はみんな外遊びが好きだ)(健康的でいいよね)(あ、でもゆたかちゃんは図書館によく行ってる)から、咎める人はいない。……ていうか、もしおじさんがいたって、「元気でいいねえ」で流されちゃうんだけど。
靴を揃えて慣れた足取りで廊下を歩く。今に続く扉をすすすと開けると、見慣れた後姿が目に入った。
……珍しい。いつもだったら、私がここを開けた時点で「来たのか?」って振り返るのに。熱心に何かを見てるみたいだけど、教科書かなぁ? ……いや、それはない、よね。どう考えてもテスト期間なんて遥か先だし。
気になって気になってしょうがないので、後ろからこっそり覗きこんでみれば、そこにはニッセンの通販カタログのお徳用ページ。あ、なるほど。
「にーくん、またニッセン?」
突然の声に驚いて後ろに振り返ったにーくんの手には、鉛筆が握られていて、ローテーブル(どちらかというと卓の方が近い気もする)の上には通販はがき……と、そのいでたちは、何を通販しようか吟味している主婦そのものだ。
まぁ、にーくんの場合は主夫になるんだけども。
「ああ。ガキども成長期ですぐ服着れなくなんだよ」
「ゆたかちゃんもたからちゃんも伸びたよね。学ラン苦しそうだし」
「さすがに制服は買ってやれねぇし、私服だけでも良いもん着せたいからな」
だから俺のは安くていいんだ、と、にーくんはいつもの眉を下げた笑い方をした。ちょっと困ったような、優しい顔。甘えたくなる不思議な表情。
またカタログの方に体を戻したにーくんの右肩に顎を乗せて、後ろから覗き込む。暑いっつの、とか言いながらもふりほどかない、にーくんのへたくそな甘やかし方、すごく好き。たまにおそるおそる頭を撫でてくれるのも、優しくて大好き。
「これ買うの?」
腕を伸ばしてカタログに引かれた鉛筆の線をなぞる。にーくんらしく、無駄に丁寧な丸。ゆったりとその丸をなぞった後、サイズの欄に指を乗せ、サイズを目でたどる。
「手頃だろ」
「そうだけど――」
ううむ、と書かれた文字列とにーくんを見比べて、にーくんの腰周りに両腕を回す。たくさんバイトして、家事もいっぱいやっているからだろう、私の短い腕でも余るくらいに細い。こんなに脂肪が無くて冬とか寒くないのだろうか。
「ちょ、! 何してんだ!?」
見上げて首を傾げながら「抱きついてるの」と軽口を叩くと、顔を真っ赤にさせたにーくんは慌てた様子で私を引き剥がそうとした。もちろん離れたくないから、ぎゅうと腕に力をこめる。
「……なぁ、その体勢、すげー恥ずかしーんだけど……」
顔を真っ赤にさせたままで、にーくんはぼそぼそと呟くように言った。そう? と軽い口調で返せば、面食らったような顔をして、こんなに近くにいるのに聞こえないくらい小さな声で何かを呟き始めた。耳を欹てても聞こえないくらい小さな声。何を言っているのか気になったけれど、そこには言及せずに言葉を重ねる。
「やっぱり細いよ、にーくん」
「……やっぱりって何だよ、やっぱりって」
「だから、これの丈はぴったりだけど、胴回りがたくさん余っちゃうから、別のやつにしたほうが良いよ、って」
指先で寸法表を示すと、にーくんは驚いたように目を丸くした。そしてすぐに消しゴムでハガキに書いた注文ナンバーをきれいに消し始める。
「すげぇな、俺全然気づかなかった」
「……たぶん、何度も通販してるのにデザインだけで買っちゃうにーくんのほうが、ある意味すごいんだと思うよ」
何回通販で失敗してると思うの、にーくんは。とからかうように言うと、「悪かったな」と頬の辺りを微かに赤くした。「勿体無いから」って着てるうちに、サイズが少し大きいことなんて忘れちゃうんだろうなぁ、と思うと、なんだか彼らしい。
にーくんのTシャツの裾を、つんつんと引っ張った。
「ん? どした、」
にーくんが私を見下ろして、優しい声色で言う。そして、私の頭にぽすんと大きなてのひらがおりる。にーくんの楽器を掻き鳴らす長い指の腹が、私の頭をくすぐった。
「別に、なんでもないよー」
「……なんでもないなら甘えんな」
くしゃ、と、髪の毛をかき混ぜられる。優しい手で、やわらかく、ゆったりと。にーくんの指先が、私の髪をくるくると巻き取るのが、妙にくすぐったい。
「にーくんも甘えんぼだね」
「お前に言われたかねーよ」
その言葉とは裏腹に、にーくんの髪を梳く指は止まらず、優しく優しく、私の髪を撫ぜていく。くすぐったくて心地よい手。
ぴんと張り詰めた糸みたいにして頑張ってるにーくんが、少しでもリラックスできますように、と、私はその優しい手の感触を感じながら目を閉じた。
write:2008/04/16 up:2008/04/18
ニッセン。とりあえずニッセン。誉さん像は私の中のと結構ズレがあったけどノマルはどんぴしゃだったから、つい。
へたくそなやり方で甘やかされ、腰に抱きつきたいだけでした。うん、思考がただ漏れってやつですか。そうですか。後悔は無いんですけどね。
本当は、某方の合格・進学お祝いとして差し上げたいな、と思って書いていたのですが、そういう名義でお渡しするには遅い気がします……
せめて私の入学式までに書き上げてれば良かったものを! ずっと小説書いてなかったからって作品仕上げるの遅くなりすぎなんだよ……orz