「あの、黒ノ介くん」

 恐る恐る、名を呼ぶ。前髪で影が出来て、黒ノ介くんがどんな表情をしているのかわからない。
 わたしの左手首は、彼のおおきな右手につよく縛められていた。前に彼に手を引かれた時のおそるおそるといったような優しさはなくて、少しだけ痛みすら感じるくらいだった。
 ……怒らせてしまった、のだろうか。

「どう、したの?」

 そうっと尋ねてみたけれど、黒ノ介くんから返事は無い。その代わりに、ぎしり、と、ベッドのスプリングが軋む音がした。
 どうしたんだろう。
 わたしは表情には出さず、今まで何があったかを必至に思い出していた。
 今から30分くらい前に、わたしは黒ノ介くんの部屋に来た。用件は、然して重要な用事でもない。借りていた、ダンジジャー《みんな》の資料を返しに来たのだ。返して、そのまま帰るでもなく、軽い雑談をしていた。例えばここの食堂のおすすめメニューだとか、そんな、とりとめのない話。その最中は別段、彼の行動にいつもと違う点なんて無かった――と、思う。思いたい。とりあえず、一番最後に話した話題は……ええっと、何だっけ。紅輔くんと翠くんの喧嘩の話……だったかな?
 でも、黒ノ介くんを怒らせるような内容だったとは、思えない。いや、わたしが気付いてないだけで、黒ノ介くんにとってみれば明確な基準があったのかもしれないけど。

「……黒ノ介、くん」

 わたしは、もう一度黒ノ介くんの名前を呼んだ。
 ちらり、と、私の顔のすぐ右の辺りに置かれた手を横目で見て、まっすぐと黒ノ介くんを見上げる。やっぱり前髪が邪魔で彼の目は見えにくい。
 わたしは、掴まれていない自由な右手で、そうっと彼の前髪をはらった。相変わらず触り心地がいい髪だなあ、と思うのとほぼ同時、真剣な彼の目が私を射ているのに気付く。

「……

 黒ノ介くんが囁くようにわたしの名を呼んだ。じ、と彼の瞳を見つめれば、髪を払ったまま止まっていたわたしの右手を、彼の左手が捕まえた。
 その、優しいくせにどこか切羽詰ったような仕草に、どきりとする。

「わたし、怒らせちゃった?」

 黒ノ介くんのこと、と続ける。

「……違う、ただ」

 黒ノ介くんは、そうとだけ言って、わたしの方に顔を近付けた。頬に黒ノ介くんの息が当たる。心臓がどくどくとうるさくなるのを抑えながら、平静を装って尋ねる。

「ただ?」

 黒ノ介くんからの返事はない。頬に息がかすかに当たる。じいっと彼の瞳を見つめながら、黒ノ介くんの唇が動くのを待つ。どうしよう。これは、彼を怒らせた訳じゃ、ない。きっと、これは、これは。
 部屋の中には、静かで、けれどどこか熱いような雰囲気に満ちて――

「俺は――」
「くろさーん! 宿題見てほしーんだけどー」
「!!!!!」

 戸の向こうから翠くんの明るい声がして、その甘いような苦いような、そんな不思議な雰囲気が一気に霧散した。
 黒ノ介くんは、それまでずうっと真顔でわたしの自由を奪うようにわたしの上に乗っかっていたくせに、翠くんの声を聞いた瞬間、顔面を真っ赤にしてわたしの手首を開放する。
 わたしの上から退いた黒ノ介くんは、わたしがゆっくりと上半身を起こすのを待って、小さな声で「……すまない」と呟いた。
 謝るくらいなら、やらなければいいのに。
 思いながらも、そんなことは言えない。言えるわけがない。わたしが自分の気持ちを伝えたわけでも、彼が何か関係が代わるような言葉を言ったわけでもないのだ。

「翠、夜なんだからもう少し静かにしろよ?」

 黒ノ介くんが扉を開けて、翠くんを誘い入れるのが聞こえる。
 黒ノ介くんのベッドに腰掛けたまま、さっきまで黒ノ介くんが触れていた手首にゆるりと指を這わす。少し赤くなっている。

「あー! もいたのか!」
「うん、いたの。……でも、もう帰ろうかな」
「……帰るのか?」

 翠くんじゃなくて、黒ノ介くんがそう言った。さっきまでの顔とは打って変わって不安げな顔でわたしを見つめていた。
 わたしはその視線から逃れ、ベッドから立ち上がる。気付かない振りをする。

「うん、もう用事も済んだから」

 いつもと変わらない仕草で微笑んで、扉の方へ向かう。

「じゃあ、二人ともおやすみなさい」

 ちゃんと勉強するんだよ? と翠くんに釘をさして、黒ノ介くんの部屋を後にした。
 廊下を素早く歩いて、自室に戻る。
 自分の部屋の扉を閉めた途端、足から力が抜けてその場に座り込んでしまった。いまさらになって、あの状況がむざむざと蘇って心臓がどきどきとうるさくなる。
 そうっと自分の手首を見つめれば、彼の指の形にかすかに赤くなっている。その痕に、そうっと唇を寄せた。
 今日は何も無かった。そう、何にも無かったのだ。
 そういうことにしておかなければ。そうすれば、わたしは明日からも、ただの補佐になれる。恋心など仕舞っておいたほうが良いのだ。
 今日のことはゆめまぼろし、甘やかな微睡みの向こう側での出来事だったのだ、と自身に言い聞かせる。
 胸を裂くような感情をしずかに抑えながら、もう一度だけ、わたしは自分の手首に唇を寄せた。



write:2011/06/11 up:2011/06/13
想いは微睡みの向こう