資料に書かれた文字を追いながら、そろそろ慣れてきた自室への廊下を歩く。最近のワルカーの動向をまとめたこの資料は、自分用にとついさっき印刷室で刷ってきたものだ。
印刷室にある一番大きなターンクリップでもぎりぎりなくらい分厚くなってしまった資料の束は、片手で持つには重すぎる。両手で資料を支えながら、てくてくと歩く。
――手、疲れたなあ。と考えながら角を曲がると、元気な声に名前を呼ばれた。
「!」
わたしが資料を見つめていた視線を上げて振り返ると、相変わらず元気な翠くんがわたしの方に駆け寄っているのが見えた。立ち止まって、翠くんがわたしに追いつくのを待つ。
「翠くん、どうしたの?」
「これ見ろよー!」
嬉々とした表情の翠くんは右手に持った紙をわたしの方に差し出した。
それを受け取るために、資料を小脇に抱えなおそうとすると、翠くんはわたしの手から資料をひょいと取り上げた。左手で資料を軽々と持ち、ずいと右手の紙を空になったわたしの手に乗せた。
「こーかん!」
「あ。……ありがとう、翠くん」
きらきらと笑う翠くんにお礼を言って、わたしは紙に視線を滑らせた。
その紙は、数学のテストだった。連立方程式が裏表に20題。ああ、そういえば先週、数学の教科書とにらみ合っていた翠くんに教えてあげたっけ。確か、この追試験をパスしないと次の部活の試合に出してもらえないんだ、と半泣きで言っていた。と、思う。
「こないだ教えてくれたとこの補習。おれがんばった!」
右上に書かれた点数は52点、翠くんのいつもの点数と比べるとかなりいい点だ。具体的に言うと、倍くらい。
「わ、翠くんよく頑張ったね!」
「えへー。おれ、えらいだろ!」
うん、えらいえらい。言いながら、翠くんの少しかたい髪を撫でると、翠くんは一瞬恥ずかしそうに身動ぎしたけれど、それでもなお私が頭を撫でていると、むうと唇を尖らせた。
「こども扱いするなよー!」
「はいはい」
くすくすと笑いながら撫でる手を止めると、じと、と翠くんがわたしを見つめた。わたしは翠くんより少しだけ背が高いから、自然、見上げられる形になる。
「翠くん?」
どうしたの、と問うように名前を呼ぶと、翠くんはつまらなさそうにわたしのおでこのあたりを睨みつけた。何かついてたかな、とテスト用紙を持っていないほうの手で額に触れてみたけど、特に何も無さそうだ。
「……おれ、なんでよりちっちゃいんだろ」
むう、と唇を尖らせたまま、翠くんはふいと視線をそらした。
確かに翠くんはわたしよりいくらか背が低いけれど、それはまだ二次成長期がきてないだけじゃないかなあ。
「すぐ大きくなるよ」
「ほんとか!?」
ぐるり、と振り返った翠くんは、きらきらした目でわたしを見つめる。本当か否か、って言われたら、嘘ではないけど確証はない。わたしは素直にそれを言葉にした。
「うん、まあ……たぶん」
「たぶんってなんだよー!」
むー! と、憤慨する翠くんがなんだか可愛くて、思わずくすくすと笑ってしまった。
「ー! わらうなよー」
「ごめんごめん」
笑うのを止めても、翠くんはむむむ、と唇を尖らせながらわたしを見ていた。翠くんの顔を覗き込むようにして、ごめんね、ともう一度言えば、翠くんは「」といつもより少し静かな声でわたしの名前を呼んだ。
「ん? なに?」
「……ちょっと、かがんで」
「屈むの?」
こくり、と翠くんが頷いたので、わたしは言われたとおりにその場で中腰の姿勢になる。そして、翠くんの顔を下から見上げるように覗き込みながら、「こう?」と首を傾げた。
ぺたり、と翠くんの右手がわたしの額に触れ、少しがさついた指がわたしの前髪を払った。何がしたいのかな、と思いながら翠くんを見つめていると、ずい、と翠くんの顔が近付いて、額に唇が触れた。
「み、翠くん?」
驚いて名前を呼ぶと、翠くんはばっと身を翻して、ずざざ、と足音を立てて数歩後ずさった。
翠くんの顔は、頬どころか顔中が真っ赤になっていた。
「すっ、すぐにの身長なんて抜いてやるからなー!!!」
そう叫んで、翠くんはそのままわたしに背を向けて、走り去ってしまった。
「え、翠くん待って、テスト忘れて……行っちゃった」
翠くんが居なくなった廊下は、急に静かになった気がする。
そういえば、翠くんは資料を持ったまま行ってしまった。返してもらわないと困るしなあ、と、翠くんの行った方に向けて足を進める。
ぼんやりと、額に触れた翠くんの手の感触を思い浮かべる。
思っていたより大きくて、肌が少しささくれた男の子の手。しかも、わたしが片手で持つには重過ぎる紙の束を、利き手とは逆の手でも平気に持っていられるくらい力持ちだ。
「……ほんとに、すぐ抜かれちゃうかも」
それって、何だかちょっと寂しいなあ。
口の中で呟いた小さな声は、静かな廊下に吸い込まれていった。
write:2011/07/11 up:2011/07/13