「あ、葵くん。ちょうどいいところに」

 九州防衛機関本部の廊下を歩いていると、この場にそぐわぬ柔らかい声に名を呼ばれた。緊張感のない、おだやかでゆったりとした口調。
 振り返れば、やはり予測したとおりが私の方にぱたぱたと駆け寄っているのが見えた。ふう、と溜息をひとつ落とし、声を返す。

「なんだ、
「前に言ってた手入れ道具の件なんだけどね」

 ちょうど葵くんに渡そうと思ってた資料が手元にあってね……はい、これ。と言いながら、は手に持った封筒の中からA4の紙が数枚ホチキスで留められたものを引き抜いて、私に差し出した。
 私はそれを受け取り、書かれた文字列に目を通す。それには前にに頼んだ、私の武器である竹細工の手入れ用道具について、いろいろと、事細かに書かれていた。
 ――口頭で説明すればいいものを、いちいちこういう風に書類を作らなければいけない、というのは、俗に言うところの役所仕事というものなのだろうか。まあ、私達ダンジジャーには年齢的にそういう面倒事は回ってこないので、あまり関係も無いのだが。そういう些事は、基本的にがこなしているようだ。私たちにはあまり気付かせないのだが。
 さっと流し読みで最後まで読み、紙から視線を上げる。

「……では、まだ用意はできていないということか」
「うん、遅くなっちゃって悪いんだけど……でも、蜜蝋のサンプルがいくつか届いてて――」
。すまない、急ぎの用があるんだが……」

 の言葉を遮るように、私の後ろから声がした。がきょとりと視線を上げて音源の方を見上げるのを見てから、私も振り返る。案の定、私の後ろには黒ノ介が相変わらず無駄に苦労を背負ったような顔で突っ立っている。
 黒ノ介は私に、「少し借りるな」とだけ言い、私の返事も待たずと話を始めた。話の最中、一瞬私の方を伺ったも、黒ノ介の用が緊急だと聞いた途端、そちらの方に意識を割いてしまった。
 ……まあ、仕方のないことではある。
 は私たちダンジジャーの補佐であり、決して私だけの補佐をしているわけではないのだ。私への用より緊急なものがあるのなら、そちらを優先するのが筋だろう。その方が効率もいい。何ら、おかしいことではない。
 ない、のだが。
 真剣な表情で話す二人を見ているだけで、どこか胸がざわついて止まない。が思案するように口元に指先を宛がうその仕草も、そのまま真面目な顔で黒ノ介を見上げるのも、どうしてか私を掻き乱す。
 苛立ちにも近い感情が、腹の底から沸きあがる。ああ、むかむかする。――いらいら、する。
 何か別のことを考えて苛立ちを紛らわせようか、と、ぼんやりと先日図書当番の最中、暇潰しに読んだ本の文章を脳内で諳んじてみる。さあ、町のなんでも屋に道をあけておくれ。お店に急ぐんだ、もう夜も明けたんだ――あえて明るいものを選んで諳んじてみても、もやもやとした感情が胸の奥に横たわったまま。表情すら装いきれない。

「じゃあ、それで頼む」
「うん、了解。金曜までには済ませるから」

 苛立ち紛れに息をひとつ吐くのとほぼ同時に、と黒ノ介の話が済んだらしい。が封筒の隅に何かを小さな字で書き留めながら、こくこくと頷いている。それを見下ろしながら、黒ノ介はああ、と身体を反転させた。

「じゃあ、よろしく頼む。あと……葵、邪魔して悪かったな」

 黒ノ介を見る私の表情が相当憮然としていたのだろう、黒ノ介は苦笑いを浮かべながら私にそう言い残し、立ち去って行った。
 は私の顔を見止めると、申し訳無さそうに眉を寄せた。

「わたしから話しかけたのに、待たせちゃってごめんね」
「……いや、構わない。黒ノ介の用の方が緊急だったろう」

 でも、と尚も言い募るの言葉を聞いていると、先ほどまでの胸の奥の痞えが、すこし引いていくのを確かに感じた。
 どういうことだ、と思いつつも、表情には出さない。さっきは表情すら繕えなかったのに、今はそれも容易だ。

「それより。蜜蝋がどうとか言っていたのは何だったんだ」
「あ、そうだった。竹細工に塗る蜜蝋のサンプルが3つくらい届いてるの。どれがいいか、葵くんに試してもらいたいな、って」
「そうか。どこにある?」
「事務室の方に置きっぱなし。一緒に行こ」

 ああ、と相槌を打てば、はゆったりと歩き出した。それを追い、私も歩き出す。


「なに?」

 振り返ったが、どうしたの、と問うように首を傾げる。その動きに引きずられるように、導かれるように、心臓がぎゅうとつままれるような感覚が沸きあがった。
 私は、反射的に右腕を伸ばし、の左手首を掴んでいた。そして、が何か言うよりも早くその腕を軽く引く。ダンジジャーの面々の中では一番非力だが、と比べれば私の方が強いに決まっている。がろくな抵抗もできず姿勢を崩して私の方へ倒れ掛かるのを軽く支え――私は、衝動的に、の唇へ自身の唇を掠めさせていた。
 視界が赫う。意識が眩む。――苛立ちは、完全に霧散していた。

「……あ、葵くん!?」

 唇が離れて数秒のラグをあけて、驚いたような、うろたえたようなの声が耳に飛び込んできた。
 ちらりと見れば、は私に左手首をつかまれたまま頬を赧らめ、うろうろと視線を彷徨わせている。

「……よだきい」

 ああ、耳が熱い。



write:2011/07/25 up:2011/07/26
引用:フィガロのアリア「私は町のなんでも屋」(セヴィリアの理髪師)より
つたない独占欲