「せんぱーい、こんなところで寝てていいんですかー」
「……ん」
肩を揺すられて、わたしは緩々と目を開けた。……まだうっすらぼんやりした視界で辺りを見渡せば、わたしが防衛機関の休憩スペースにいることがわかった。
でも、どうしてここにいるんだっけ。
まだ正常に働かない頭で考えながら、目を擦る。まだ少し眠い。
「あ、目擦っちゃダメですよー? 赤くなっちゃいますからね!」
「うん、しってる……」
「先輩、擦りながら言わないでください」
誰かの手に手を捕まえられて、目から離される。うう、まだ目がしばしばする。目を瞬かせると「せんぱいかわいいなー」とけらけらと笑う声がした。
「だぁれ?」
「先輩、もしかしてまだ寝ぼけてますか?」
ぽすぽすと頭を撫でられる感触がした。なんだか、猫にでもなった気分だ。やわらかい眠気が誘われる優しい手の感触に、思わず目を細める。
「あ、寝ちゃダメですよ。早く起きて、それで、部屋で寝ましょう。ここだと風邪引きますよ、たぶん」
頭を撫でる手が止まる。
ほら起きて起きて、と声が急かすので、わたしはぎゅーっと目を瞑って、のろのろと目を開けた。まだぼんやりした視界は晴れないけれど、だいぶ意識も浮上してきた、気がする。
ぱちぱちと瞬きをしてみると、橙矢くんにじっと見つめられていたことに気付いた。
「……あれ、橙矢くん?」
わたしが首を傾げると、橙矢くんが苦笑を浮かべた。そして、小声でやっぱり寝ぼけてたんですね、と呟いたのが聞こえた。
「おきました?」
「うん。おはよう」
「おはようございます。……時間的にはおやすみなさい、ですけど」
橙矢くんがそう言うので、わたしは自分の腕時計を見た。時間は23時に近い時刻を指している。いつもだったらこの時間は、ここから少し離れた防衛機関の寮(といっても、わたし以外でそこを日常的に使ってる人はほとんどいない。ダンジジャーのみんなはまだ被保護者だし、機関の人はみんな年嵩で、「自分の家」がある人ばかりだ)の自室に帰ってる時間だ。どうして、こんな時間までこっちにいたんだろう。思い出せない。
「橙矢くんが起こしてくれたの?」
「はい、そうですよ。先輩は、何してたんですか?」
「何って……」
それがちょっと思い出せないんだよねぇ、とも言えず、ローテーブルに視線を向ける。机上には、開かれたファイルが三冊に分厚い茶封筒が二枚、いろいろとメモを書きとめた資料が一部、そしてペンが散乱していた。
ああ、そうだ。全然これがまとまらなくて、気分転換に事務所から休憩スペースに移って作業を続けてたんだった。
「いちおう、お仕事。ちょっと煮詰まってて」
「それで寝ちゃったんですか? ダメですよー」
橙矢くんはたまに、純粋に素直にそして真っ直ぐな言葉で痛いところを突くよなあ。これからは気をつけよう……と思いながら、「うん、気をつけます」と苦笑いを浮かべながら返事をする。
散乱した紙を集めてみると、意識を落とす前に一応一通り作業は終えたらしいことが見て取れた。ちょっと字が汚いけど、どうせ明日以降PCに打ち込むだろうし、読めれば問題ない。はず。
手早く整えて封筒に入れていると、橙矢くんがわたしを見ている視線を感じた。橙矢くんが起こしてくれなかったら明日の朝にものすごく慌てる羽目になったんだろうなあ――と、そこまで考えて、どうしてこんな時間に橙矢くんがここにいるのだろうと思い至った。
「橙矢くんは、どうしてこんなとこに?」
「どうしてって。ボクも一応防衛機関の一員ですよ!」
「そう意味じゃなくて――今日はこっち泊まる日じゃないよね?」
そう尋ねると、橙矢くんは一瞬だけ気まずそうに視線を彷徨わせたけれど、すぐに「これは秘密ですよ?」と前置きをして口を開いた。
「ちょっと、忘れ物しちゃって取りに来たんです」
「え、こんな時間に?」
「いえ、もう少し早い時間に来たんですけど、どこに置いたか思い出せなくて。探してたら遅くなっちゃったんです」
「そっか。ちゃんと見つかった?」
「はい、見つかりました。それで、帰ろうとしてたら先輩を見つけて、起こしたんです」
なるほど、と思いながら再び時間を確認する。もう23時を過ぎている。さすがにこんな時間に、中学生を一人で歩いて帰すわけにもいかない。わたしはファイルと封筒を重ねて抱え、ソファから立ち上がった。
「ちょっと待ってて、資料置いたら送ってあげるから」
「えっ!?」
わたしがそう言うと、橙矢くんはぎょっとしたように目を見開いた。もしかして、わたし、橙矢くんを一人で追い出すような薄情な人だと思われてるのかな。どうしよ、そうだとしたら、ちょっと落ち込む。
「だって、もう暗いでしょう? 一人では帰せないよ」
「え、あ、う……そうじゃなくて……」
橙矢くんは、しばらくうろうろと視線を彷徨わせていたかと思うと、あ! と短く叫んで、ずいっとわたしの方に顔を寄せた。びっくりして思わず仰け反りかけたのを抑えながら、どしたの、と尋ねる。
「ぼ、ボクを送って、その後は先輩どうするつもりですか!?」
「え、それは――ここの寮まで戻ってくる、けど」
「ダメですよ、結局先輩が夜中に一人歩きじゃないですか! 危ないですよ!」
橙矢くんの剣幕に、思わず口を噤んだ。確かにもう夜中といっていい時間帯に、一介の高校生女子が一人で歩くのは危ないだろう。けれど、橙矢くんのこの言葉――というより、行動にどこか違和感を感じた。
けれど、確かに危ないことには違い無いので、わたしは一つ別の案を出すことにした。
「じゃあ、今から事務所行って鍵取ってくるから、今日は合宿所の方で寝る、ってことでどうかな」
わたしがそう言うと、橙矢くんは少し安心したような表情で頷いた。橙矢くんが頷いたので、わたしは早速ファイルたちを事務所に持って行くことにした。手に持っていたファイルの山を再び抱えなおしながら「戻ってくるまでの間に親御さんに外泊するって連絡しておいてね」と橙矢くんに言い、足早に事務所へと向かう。自分の机に山を片付け、鍵束を手にとって再び休憩室に戻れば、ちょこんとソファに座っている橙矢くんの後姿が見える。音も無く近寄れば、手には携帯電話が握られて、その画面にはメール作成画面が表示されているのが目に入った。
……あて先はお母さん。本文は、空白。
確かに今日の橙矢くんの行動にはいろいろと違和感は感じていたけれど、もしかして親と何かあったのかな。
それに触れようか触れまいか一瞬だけ迷って、結局触れないことにした。
「おまたせしました、橙矢くん。行こうか」
「はいっ」
橙矢くんが立ち上がって、わたしの方に駆け寄ってくる。わたしの数歩前でぴたりと足を止めた橙矢くんは、にこにこと笑っていた。表向きはいつもと変わらないけれど、なんだか心配だなあ、と思いながら、橙矢くんの頭を撫でれば、彼はきょとりと首を傾げた。
「先輩?」
「おまじない、してあげる」
おまじないですか? と楽しそうに目を輝かせる橙矢くんに、目を閉じるように言う。うきうきとした様子で目を閉じる橙矢くんの額にそうっと手を乗せる。
そして、橙矢くんの悩みが解消されますように、とか、どうか彼が幸せでありますように、とか、いろいろな想いを込めながら、橙矢くんの瞼に、やさしく、唇を寄せた。
ああ、どうか彼のまだ小さい身に、幸せが満ち足りますように。
write:2011/08/11 up:2011/09/09
橙矢くん、ホントは親御さんとケンカしてぷち家出。