「……暑い」
孝紫くんが、一見真顔でその実なんにも考えていない表情で、ぼんやりと呟いた。わたしはそれに苦笑を返すことしか出来なくて、なんだか申し訳ない気分になる。
がさがさ、わたしたちが資料を探す音だけが響くこの部屋は、今はもうほとんど使わない資料やら機材やらが押し込まれている。まあ、俗に言うところの物置である。
「エアコンは無いのか、この部屋」
孝紫くんが手の甲で額を軽く拭いながらわたしに尋ねてくる。わたしも、首の後ろやら背筋やら、じっとりと汗をかいている。今年は猛暑なのかわからないが、確かに今日――そしてこの部屋は異様に暑い。エアコンがあるのなら、使いたいくらいだ。
「ある、と言えばあるんだけど――」
わたしは、ちらりと天井のエアコンの噴出し口を見上げる。わたしの視線の動きに合わせて、孝紫くんの視線も虚空を見上げた。
孝紫くんは、しばらく冷たい風どころか音すら発さないエアコン吹き出し口を見ていたかと思うと、じ、とわたしの目を真っ直ぐに見つめてくる。
孝紫くんの目は、目は口ほどに物を言う、という言葉を体現しているなあ、といつも思う。
わたしがそうっと首を横に振れば、孝紫くんは眉を寄せた。
「……まさか壊れているのか」
「……うん、結構前から。ここ、基本的には使わないし、放置してるんだって。経費削減?」
けーひさくげん、と孝紫くんがぼんやりとした口調でわたしのいった言葉を鸚鵡返しに呟いた。……その言い方、翠くんみたいでちょっとかわいい。わたしより背の高い子に思うのは悪いかな。でも年下だしなぁ、と思うと、少し苦笑が浮かぶ。
「だから、無理して手伝おうとしなくていいよ。暑いし、体調崩しちゃうかも知れないでしょ?」
わたしがそう言うと、孝紫くんは首をゆっくりと横に振った。
「いや。確かに暑いが、一人をこんな暑い場所に置いて倒れられるほうが怖い。無理をするのは俺の目の届くところでにしろ、心臓に悪い」
一瞬だけぽかんとして、そして、脳が意味を噛み砕いた瞬間、目尻が熱った。
孝紫くんは、ときどき、こういうとんでもない殺し文句を、さらりとごく自然に口に出す。しかも、狙っているわけではなく天然の物言い。表情からは思いつかない突拍子も無い天然の殺し文句に、いつもわたしはペースを崩されてばかりだ。
「えっ、と……あの」
意味の無い言葉を口に出して、どう返事をしたものか思案する。
――とは言っても、孝紫くんは、たぶん今の発言に何らかの作為どころか他意すら含めていないのだろう。孝紫くんは、何かをむっすり考え込んでいるような表情で、その実何にも考えていないということがしょっちゅうある上に、意外と自分の感情や考えに対して素直に行動する。
だから、さっきの思わず照れてしまうような言葉も、純粋に仲間(と思ってもらえてる、って考えていいんだよね?)を心配しての言葉なのだろう。うん。……そう考えると、ちょっとどころかかなりうれしい。
「じゃあ、喉が渇いたらすぐに言ってね? 熱中症は怖いから」
「ああ。もすぐに言え」
うん、ありがとう。と返事をして、ダンボールの中を確認するのを再開した。
けれど、孝紫くんも言っていた通り、暑いなあ。考えながら、手で湿った首筋を拭う。
そもそも、何故エアコンが壊れたままの倉庫で探し物をしているのか。それは簡単なこと、上司に「急襲防衛機関設立当時の出納帳を参照したいのだが」と頼まれごとをされた、ただそれだけのこと。
ダンジジャーの面々の補佐の仕事だけやれれば、それはそれでいいんだけど、「防衛機関」っていう組織の一員をやっている以上はそうはいかない。防衛機関の中でもぺーぺー、下っ端なわたしに拒否権なんてあるはずも無く、わたしは空調の壊れた部屋で、探し物をする羽目になったのだ。……まあ、こういう言い振りはしたけれど、そういう仕事が嫌いなわけじゃないから、かまわないけど。
ちなみに、孝紫くんは火縄銃のメンテナンス日を確認するためにわたしを探してこの倉庫にやってきて、一人広い倉庫で探し物をするわたしを可哀想に思ったのか、用が済んだ後もこの部屋に残って手伝ってくれている。有難い。ダンジジャーのみんなは、それぞれ特徴があるけれど、みんな心根が優しいいい子達だ。
つらつらと考えながらも、引っ張り出したバインダー(表紙に年月どころか、何を綴じてるのかすら書かれてないってどうなんだろう……)を開いて中を確認する手は休めない。
文字を辿るように下を向くと、重力に従って髪が流れる。汗で湿った肌に、髪が張り付いて不快だ。む、として片手で払いかけて、はたと気付く。
「あ、結んじゃえばいいのか」
ポケットの中に確かゴムか何かが、とポケットの中を探してみると、ベージュにレースがついたシュシュが一つ出てきた。確か雑貨屋さんで一目惚れしたやつ、ちょうどいい。手櫛でささっと髪を高い位置にまとめて、結ぶ。黒ノ介くんとおんなじポニーテールだ。少し後れ毛が残っているような気もするんだけど、首裏のあたりが開けただけでもだいぶ涼しいし、何より、視界が暗くならないのがいい。
そのまま、膝に乗せたままのバインダーの中身を確認するのを再開した。出納の日付を確認すると、一昨年の7月から12月にかけてのものがファイリングされていた。うーん、古いのはダンボールの中かと思ってたんだけど、意外とそうじゃないのかもしれない。
……と、いうか、この部屋の資料が全然整理されてない、だけ? ありうる、と言うより、その可能性の方が高い予感がする。ここ九州防衛機関は、わたしが異動してくるまで――それはつまり、今のダンジジャーの彼らが選ばれるまで、ということだ――の間、いろいろあったらしいし。わたしはまだ、法律的にも精神的にも未熟な子供だからか、聞いても教えてもらえないんだけど。
……まあ、もう少し大人になったら、教えてもらえるのかな。
考えながら、次のバインダーを取ろうと箱の底の方に腕を伸ばしかけると、くいと髪が何かに引かれる感覚がして、わたしは思わず動きを止める。
そして、そうっと後ろを確認すると、さっきまで向かい側の別の棚の中を探してくれていた孝紫くんがわたしの束ねた髪を左手で掴んでいた。
「……孝紫くん?」
呼びかけに返事は無い。もしかして具合悪くなっちゃったのかな、ともう少し首を曲げて窺おうとするのとほぼ同じタイミングで、孝紫くんが掴んでいた髪を右肩の方に払った。視界が少し狭まる。
きゅ、と、孝紫くんの靴の底が擦れる音がして、彼がわたしのすぐ後ろに膝をおろしたのだろうか、と算段を付ける。蛍光灯で伸びたわたしの影と後ろにいる孝紫くんの影はもう重なって、影で彼の動きを窺うことも難しい。
「ど、うかした? 具合悪い?」
「首、白いな」
……こ、答えになってないよ孝紫くん!?
わたしが予想外すぎる言葉に硬直しているのに気付いているのかいないのか(たぶん気付いてない)、孝紫くんがわたしの首裏の真ん中を指でたどる。その少しがさがさしている孝紫くんの指がわたしの首のかたちを辿るたびに、ぞく、とくすぐったいのとは少し違う感触が背筋を走って、頭が混乱した。
「こ、孝紫、くん……?」
おそるおそる孝紫くんの名前を呼ぶわたしの声は、自分のものじゃないみたいに震えていた。
わたしの混乱が通じたのか、ぴたりと孝紫くんの指が止まる。安心して、息を吐こうとしたのも束の間。
首後ろの骨の辺りに、やわらかい感触が触れた。
え、なにこれ。と触れたものが何なのか理解するよりも早く、濡れた舌が同じ場所に触れて、脳よりも先に体のほうが何をされたのか理解した。全身が沸騰したみたいに熱くなる。
「こ、孝紫くん、ストップ! ストップ!!!」
孝紫くんにきすされた。と、認識するよりも早く反射的に叫んでいた。そのまま膝立ちで数歩前に歩いてぐるりと振り返れば、孝紫くんが何故止められたのか理解しがたい、と言うような表情でそこにいた。
わたしは二回ほど深呼吸して、心を鎮めて口を開く。……いやあの、全然静まってなんかいないんだけど、気休めで。
「今の、あの、何ですか」
なぜか敬語になってしまったが、最早それに頓着するほどの余裕も無かった。それに、孝紫くんはそれを気にした様子も無く、さらりと返してくる。
「キスだが」
な、なんでそんなにさらりと、照れもせずに答えられるの、このひと。頬がかあ、と赤くなるのを感じながら、そっと視線を横にはずす。孝紫くんの真顔が、自分の驚きも混乱も何もかもを見透かしてるようで、見てられなかった。
「な、なんで……?」
「……の首が、白かったから」
り、理由になってないです!!! と言いたかったけれど、わたしの混乱も極まっていて、声がうまく出せない。ぱくぱくと、水からあがった魚みたいに口を動かすのが関の山だった。
孝紫くんの言葉は、まだゆっくりと続けられる。
「触れてみたくなって、指で触った。――足りなかったから、キスをした」
あまりにも明け透け過ぎる言葉に耐え切れない。
恐る恐る孝紫くんを下から見上げるように窺うと、いつもと変わらないようで――どこか違う目と、目が合った。そう、彼の目はいつだって、口以上に物を言うのだ。
瞬間、かあ、と。発熱と緊張の音が脳裏に走る。そして、警鐘にも似た早く大きな鼓動が、胸を強く叩きだした。
くらり――眩暈が、した。
write:2011/08/16 up:2011/09/19
孝紫さんって食欲にものすごく素直だから他の欲求つまるところ性欲にも素直なんじゃねえかと思って……。