ふと背後に近寄る人の気配を感じて、わたしは資料に走らせていたペンを止めた。誰だろう、考えながらペンの蓋を閉じ、首だけで振り返る。
「……琥珀くん?」
「はい。今、大丈夫ですか?」
相変わらず琥珀くんは丁寧だなあ――と考えながら、「大丈夫だよ、座って座って」とわたしの向かいの椅子を指し示しつつ返事をした。そのまま、3枚目を開いていたホチキス留めの資料を閉じるけれど、琥珀くんがわたしの後ろから動く気配が無い。
どうしたんだろう、考えながら資料やペン類をまとめていると、その手が琥珀くんの手に包まれた。そこいらの女の子よりよっぽど綺麗な見た目なのに、わたしの手に重なる琥珀くんの手は肌が少し硬くて骨ばっていて――おとこのひとの手を、していた。
「ど、どうしたの?」
琥珀くんからの返事は無く、その代わりか、琥珀くんの長い指がそろりわたしの指の合間を撫でた。
「ちょ、琥珀くん!?」
その感触に一瞬どきりとしながら、それを押し留める。背中に程近いところに、琥珀くんのぬくもりがある。背筋が粟立った。
「ふふ、なんですか?」
琥珀くんの声はいつもと変わらない、穏やかな声のままだ。こういう風に振り回されているのは自分だけだと思うと少しくやしくなる。
「……こういうのは彼女にしよう。ね?」
「そういう人はいませんよ」
琥珀くんの指先が、わたしの指の関節をなぞる。琥珀くんのテノールボイスと吐息が、わたしの耳をくすぐっていく。
「いないからって、わたしにしないで」
手から視線を逸らしながら、息を吐く。自分らしからぬ物言いのような気もしたけれど、びっくりしすぎて繕う余裕も無かった。正直な話、いっぱいいっぱいだ。
「ダメですか?」
「……ダメだよ」
そう返せば、指の付け根をゆったりと撫でられた。肩がぴくりと反応しそうになるのをおさえる。
「何故ですか?」
「え、な、何故って……」
返事につまると、琥珀くんの吐息が耳朶に掛かった。熱が顔に集まる。
熱っぽい言葉が、するりと染み込んで来る。
「好きな人に触れたいと思うのはいけないことですか?」
茹りかけた意識が、鎮まる。いけないいけない、からかわれているだけ。
ふぅ、と息を吐いて、尋ねた。
「それは、何人目?」
「え?」
振り返って、琥珀くんの目を真っ直ぐに見上げて尋ねる。
「わたしは、何人目の好きな人?」
琥珀くんのおだやかな表情が、ぴたりと静止した。
この穏やかでやわらかい甘い顔で、わたし以外の誰かに微笑んで、たくさんの女の子に触れて、愛を囁いてきたのだろう。
危ない危ない。うっかり琥珀くんの手管に飲まれかけてしまうところだった。
……まだ頬は熱を持ったままだけど。
自由に動かせる左手で琥珀くんの胸を軽く押して、「琥珀くんだって、わたしが本気にしたら困るでしょ?」と誤魔化すように首を傾げて言うと、琥珀くんの表情が一瞬消えた。
「琥珀く――ッ!?」
言葉が、途切れた。
包み込まれたままだった右手を強く引かれて琥珀くんに抱き締められたのだ、と気づいたのは、その少し後だった。
そのまま背中に回された腕に、息苦しさすら感じるほど抱きすくめられる。
「そう思われていたなんて、心外ですね」
口調だけはいつもと変わらないのに、琥珀くんの声色はいつもとは全然違う。
――微かに掠れて、縋る響きすら滲ませる声が、わたしの耳朶から脳髄背骨へと注がれる。
「僕は、さんに会った時から今までずっと、あなた一筋ですよ」
背筋がぞくりとわなないた。
「……ほ、本気に、するよ……?」
「是非。――そうして、下さい」
震える声で尋ねれば、どこか切羽詰ったような声が返ってくる。
わたしが琥珀くんの右胸に押し当てていた左手をおそるおそる彼の背中に回すと、彼はわたしを抱き締める腕の力をより一層強くした。
彼の胸に頭を預けて、わたしはそっと目を瞑る。
早鐘が二つ、重なり響いていた。
write:2012/01/09 up:2012/01/10