さすがに疲れたなあ、と思いながら某カロリーメイトを咀嚼する。ここ二日ほど、食事の時間も碌に確保できてないし、睡眠時間だって削っている。学校の休み時間も通学時間もほとんどこの作業に当てているくらいだ。
 でも、最近になって見付かったワルカーに関する古典みたいな文献には、寸暇を惜しんで読み解く価値があるはずだ。……多少は。
 多大に価値があるのなら、わたしではなく、大学の教授だとか、古典文学の研究者だとか、古典に長けた人がこの作業に当たっているだろう。情報漏洩を防ぐためなのかもしれないけれど、防衛機関の息がかかった大学くらいありそうな気もする。
 そう考えると、そこまで必死になることもないのかもしれない。けれど、防衛機関の上の人も気付かないような「何か」が書かれているかもしれない。
 それに、全然正体がつかめないワルカーのことを少しでも把握できるなら、それだけで価値はあると思う。
 もぐもぐ、脳を働かせるための養分摂取作業として口を動かすのも億劫になってきた。……なんか、食事に対してそんなことを思ったなんて孝紫くんにばれたら怒られそうだ。孝紫くん、食べ物が関わると見境無いからなあ。
 ……変なこと考えるの、やめよう。うん。



 思考を再び文献に戻しかけたところで急に声が掛けられた。文献のコピーから視線を上げると、ちょうど葵くんがテーブルを挟んで向かいの席に腰掛けるところだった。
 もう見回り終わる時間か。そう考えながら、葵くんに声をかける。

「葵くん、おかえりなさい。今日はどうだった?」

 報告書に書くようなこと、あった? 尋ねると、葵くんは顎に指を当てて一瞬考えるような素振りを見せる。

「――いや。特には無いな」

 葵くんの怜悧な目は伏せられている。……疲れちゃったのかな。

「そっか。お疲れ様」
「ああ。……」

 わたしの労いの言葉に頷いた葵くんは、わたしを横目でじとりと見つめた後、眉間に皺を寄せて深々と息を吐いた。
 え、わたし、変な恰好してるかな。あわてて自分の身体を見つめる。
 ――いつもと違うのは、制服を着ていること、かな。いつもは、本部の更衣室で制服は着替えるようにしているけれど、寸暇を惜しんだから、今日は制服のままだ。けれど、普通の、いつもと変わらない、わたしの学校の制服。

「それは、いつからやっている」
「……それ?」

 何のこと? と首を傾げると、葵くんは眉間に皺を寄せたまま、理知な瞳でわたしを見つめた。そこで、葵くんが見つめているのは、わたしが左手に持っている文献のコピーなのだと、気付く。

「一昨日くらいからかな。そんなにずっとやってたわけじゃないよ」

 わたしの返答を受けて、葵くんの黄金の瞳が、わたしを見据えた。
 じ、とまっすぐに見つめる葵くんの瞳に、呆れたような責めるような色を感じ取るのは、わたしが後ろめたいからなのか、実際に葵くんがそう思っているからなのか。いまいち、判断に迷う。

「……そうか」

 葵くんは息を吐いて、立ち上がった。こつこつ、葵くんの隊服のブーツの踵の音がわたしを横切りかけて――わたしが腰掛けているソファの背が、ぎしり、軋んだ。

「葵くん?」

 振り返ろうとすると、突然、目前に葵くんの手が差し出された。驚いて反射的に目を瞑ると、葵くんの手がまぶたに触れた。
 少し冷たい葵くんの指にまぶたを優しくなぞられる感触が、疲れた目に心地好い。

「――私に空言を言うのなら、もう少し繕うことだな」

 葵くんの指の感触に癒されていると、溜息混じりの声が聞こえてきた。葵くんに左の耳元で囁かれているらしい。葵くんのテノールになりかけのアルトにくすぐられて、少しくすぐったい。

「嘘は吐いてないよ?」

 返事をしながら、わたしの目を覆い隠す葵くんの手に触れる。視界が闇に満たされていく。
 そう、嘘ではないのだ。一日のうち、この文献を読むのにかけていた時間が長いだけで。

「ならばこれはどう説明するつもりだ」

 葵くんの手が目から離れたかと思えば、細い指に目の下をなぞられた。目の下、って――。

「……隈できてる? 濃い?」
「薄い。私以外に気付いていたのは琥珀くらいだろう」

 なるほど。さっきわたしを見て眉間に皺を寄せたのは、わたしの隈を見つけたからかな。
 そこまで考えて、葵くんの今の言葉に何かが引っ掛かった。けれど、その正体を私が掴むより先に、葵くんがゆっくりと目の周り――眼窩を撫でる感触に、意識がだんだんと白んでくる。

「葵くん」
「……何だ」
「それ、きもちいい」

 ぼんやりと呟くと、わたしの後ろにいる葵くんが、呆れたように溜息を吐くのが聞こえた。

「寝ろ」
「え?」
「一時間寝ろ」

 葵くんの指がわたしの視界を鎖す。まだ作業が、と言おうとして――そのまま、すぐに、暗くなった視界に意識も融けていった。

「――あまり心配をさせるな」

 頭をゆっくり撫でられる感触も、その柔らかい声も。全て夢の――忘却のかなた。



write:2012/06/10 up:2012/06/11
眠りいざなう指