静かな呼気が聞こえてきて、私はの目を覆っていた手をそっと放した。手の裏に、未だの睫毛の感触が残っている気がした。
 緩やかで一定の――眠っている人間特有のリズムで呼吸を続けるを見ながら、の横に腰を下ろす。微かにソファが揺れたが、が起きる気配は微塵も無かった。眠りについてすぐだというのに、随分深い眠りのようだ。ただ目を覆い、擬似的に視界を闇に閉ざしただけで眠気に負けるとは、一体今までどれだけの睡眠時間を削ったのか。想像に難いものがある。
 目を伏せ眠るの姿は、一見すれば穏やかそうではある。が、先ほど当人に指摘したとおり薄らと隈ができている寝姿は、健やかとは言い難いものだろう。
 座ったまま眠るは、時折ふらりと頭を揺らし、なんとも据わりが悪そうであった。確かに、身を起こしたまま眠っていても疲れはあまり抜けないだろう。
 ――仕方あるまい。無理に寝させたのは私だからな。
 対象のわからない言い訳を重ねながら、の肩に触れ、そっと横に倒して膝を貸してやる。は一瞬だけ身じろいだが、起き上がることもなく昏々と眠り続けている。
 触れた肩が思っていたよりも薄く、訳もなく気恥ずかしさが浮かぶ。無理ばかりして苦労をする分、細身なのだろうか。或いは、ただの性差によるものなのかもしれない。あるはずの年の差すらあやふやに感じられるほどの、頼りない肩だった。

「――あまり、心配をさせるな」

 囁きかけるように告げ、頭をなでる。彼女からの返事は勿論無い。返ってくるのは穏やかな寝息だけだ。
 さて、これからどうやって時間を潰すか。ふと、の傍らに紙の束が落ちたことを思い出した。先ほどまでがひたすらに読んでいたものか、と当たりを付けて手に取る。「暇潰しになるだろう」とそれに視線を落としたが、一行読もうとした時点でその淡い期待は脆くも崩れ去った。趣味として読書は嗜んでいるが、古典を原文そのまま読むなどしたことが無い。これは、少なくとも、「暇潰し」に読めるようなものではなかった。
 苛立ち紛れにぱらぱらと紙を捲れば、半分程までメモ書きやら折り癖やらが付いていた。そこまでは読み進めたのだろう。机上には辞書やらノートやらが並べられ、真剣にこの古典と向かい合っていたのだということがわかる。
 ……ここまで真剣に読まなければならないものなのだろうか。一瞬そう考えたが、がここで読んでいる、ということは、私たち――もしくは、九州防衛機関に多かれ少なかれ関係がある文章なのだろう。書かれた内容を全く理解できていない現時点では断言することはできないが、は、基本的に学生としての自身と防衛機関の一員としての自身を切り離し、混同しない。もし学校の課題なのだとしたら、は恐らく本部でこの紙の束には触れもしないだろう。はそういう性質の人間だ。
 だからといってここまで無理をするか。そう思うとどこか苛立たしい。
 腕を伸ばして辞書とノートを閉じ、気休めにもならないだろうが、机上のからなるべく遠い角にひとまとめにした。その上に、古典のコピーを裏返しに載せる。これで視界には入らない。の意識からも、しばらくこの古典のことは消えている。いっそ完全に消えてしまえば良いものを。
 そこで、自分の考えのひずみに思わず眉間に皺を寄せた。これでは、まるで、独占欲のようだ。……馬鹿馬鹿しい。
 はぁ。思考を振り払うように溜息を吐き、懐に忍ばせていた文庫本を取り出した。昨日学校の図書館から借り、未だ読み終えていない代物だ。暇潰しには丁度よいだろう。――初めからこうしていればよかったか。考えながら栞を手繰りページを開けば、視線と意識が本へと吸い込まれていく。
 しずかな部屋の中は、私がページを捲る音との柔らかい寝息の音だけで満たされている。
 私の膝の上には僅かな重さと、柔らかいぬくもりがある。まるで膝の上に猫を乗せているようだと思いながら、好奇心もあり、本に視線を落としたままの髪に指を差し込む。そのまま毛先まで指を動かせば、華奢な音を立ててその髪は指から離れて行く。さらり。戯れにの髪を梳けば、ガラスのような音が耳に届く。その心地よさに、目を細める。

「あおいー! 見回り面倒だからって先に帰るなよー!」

 途端、静寂を破る声が飛び込んできた。静寂の中だからこそ聞こえる華奢な音はもう聞こえない。翠を窘める黒ノ介の声すら煩わしく感じられる。
 思わず眉間に皺を寄せつつ、本を閉じ半身だけで振り返る。

「黙れ、翠」

 が起きてしまうだろうと付け加えつつ吐き捨てると、翠はぱちぱちと目をまばたかせ、こちらに歩み寄ってきた。他の奴等も、ぞろぞろとこちらに近付いてきている。
 ああ、またうるさくなる。
 内心溜息を吐いていると、翠が「がねてる」と間の抜けた口調で呟いた。その言葉に、後ろから付いてきていた皆も同様に間の抜けた表情を浮かべ、私の膝の上を覗きこんだ。

「マジだ! ……ちゃん寝てる」

 驚いたのか大声を出しかけた紅輔を半眼で睨むと、声を潜めながら言葉を続けた。私が直接睨んだわけでもないのに、橙矢も口に手を当てている。

、疲れてたのか?」
「そうかもしれませんねー」
「めずらしいこともあるんだな」

 潜め声で、皆口々に言葉を交わす。……確かに珍しい光景ではあるが、本当にこいつらは気付いていなかったのか。そう考えると、いらいらするやら優越に似た感情が沸くやら、我が事ながら相反している。……まあ、気付いていたのは私だけは無いのだが。

「さて、お疲れのさんへの報告は後にして、先に鍛錬でもしましょうか」

 琥珀はくすりと柔和に微笑みながら言う。その笑みに何か含みを感じるが、私はそれを黙過する。

「そうだな。葵、が起きたら教えてくれ」

 黒ノ介の言葉に首肯を返せば、皆は「あおいは見張り役だな!」やら「先輩をよろしくおねがいしまーす」やら、好き勝手言いながらいつも通り思い思いの場所へと散っていき、再びその場は先ほどと変わらぬ静寂に包まれる。
 唯一違うのは。

「よく寝ていますね」

 ――琥珀がまだいることくらいか。

「だから、先に本部に帰ったんですね、葵くん」

 琥珀は私の相槌も待たずに言葉を続けるが、琥珀の言葉はさっくりと黙殺し、私は再び文庫本を開く。
 完全に返答する意思が無い私を見、琥珀はやや苦笑しながら「ゆっくり寝かせてあげてくださいね」と言い残し、立ち去っていく。
 やはり返事をする気がないと分かっていたか。相も変わらず食えないひとだ。遠くなる背を見ながら、はあ、と溜息を一つ落とす。

「言われなくてもそうする心算だ」

 吐き捨てるように呟いて、の髪に指を梳かす。
 さらり。こわれそうなほど、華奢な音だった。



write:2012/07/01 up:2012/07/02
膝の上には眠り姫