「あれ、?」

 靴を履き替えていたら、聞き覚えが無いようであるかすかに低い声が聞こえてきた。
 声のするほうへと緩慢に振り返れば、随分と久し振りに会う幼馴染がわたしの方に駆け寄っているのが見えた。
 幼馴染、といっても、今は疎遠だ。昔の、二人きりで遊んでいたような関係は見る影も無い。親同士は、たぶん、今でも交流はあるんだろうけれど、わたしと佐賀くんの関係は、この三年でどんどん希薄になっている。
 この呼び方がその証左だ。昔は、何の衒いもなく「黒ノ介くん」って呼んでたし、向こうもわたしのことを「」って呼んでいたけれど、中学生になって、制服に袖を通すようになって――いつの間にやら出来た距離が、下の名前で呼ぶことを躊躇わせていた。

「……佐賀、くん」
「今帰りか?」
「うん。ちょっと、委員会で」

 佐賀くんを見上げて言葉を返す。
 いつの間にこんなに大きくなったんだろう。……こんなに近い距離で話すのも久々だから、いつこんなに差がついてしまったのかわからない。
 昔は、わたしの方が背も高かったし、声の高さだって同じくらいだったのにな。
 なんだか微妙な気分だった。わたしはそっと目を伏せて、ローファーの爪先で床をとんとんと叩く。

「佐賀くんは、部活?」

 話題を転換する。たしか剣道部だった気がする、と考えながら問うと、「ああ、大会が近いんだ」と答えが返ってきた。

「そっか。――がんばってね」

 部活のことを聞いて、わたしはどうするつもりだったんだろう。
 自己嫌悪がすこしだけ湧き上がって、「じゃあ、またね」とだけ告げて、わたしはそのまま歩き出した。自分でも「何だか逃げるみたい」と思ったけれど、あのまま平静を装って話し続けられそうになかったのだ。

「え、ちょ……! 待って」

 佐賀くんの言葉に足を止めて振り返れば、慌てた様子で靴を履いている佐賀くんが、ほんと待って、と再び声をあげた。
 再び歩き出す気にもなれなくて、彼が靴を履き終えるのを黙って待つことにした。

「こ、こんなに遅いのに一人だと危ないだろ。送っていくから」

 わたしに駆け寄った佐賀くんは、そんなことを言い出した。思わず、眉を訝しげに顰めて、「……送っていく、って」どうして、と言外に含ませながらも、ほとんど鸚鵡返しな問いを一つ投げた。

「いや、帰り道、ほとんど一緒だろ。だから、送るって言うよりは、一緒に帰る、って言った方が正しいけど……」

 わたしの問いに、佐賀くんはあたふたと言葉を繋げる。あんまり、答えにはなってない。わたしの問いも、質問の体を保ってはいなかったけれど。

「あの、は、嫌か?」

 わたしが黙ったままで佐賀くんの言葉を聞いていると、彼は恐る恐るといった風に尋ねてきた。断る言葉も理由も思いつかなくて首を横に振ると、佐賀くんはあからさまに安堵の表情を浮かべて、「じゃあ、一緒に帰ろう」と歩き出した。「うん」曖昧にうなずいて、彼にすこし遅れて歩き出す。
 夕方も過ぎて暮れた夜だけれど、空気はまだじっとりと暑い。夏服は薄手のセーラー服だけど、それでもやっぱり暑いものは暑い。ちらりと見上げた佐賀くんも、夏服のカッターシャツ姿だ。部活で動いた後に制服姿になるのって暑くないのかな。考えながら、ぼんやりと佐賀くんの揺れるポニーテールを目で追う。髪、ほんとに伸ばしたんだ。

は……いつもこの時間なのか?」
「ううん。今日はちょっと遅くなっただけで、いつもは明るいうちに帰っちゃうよ。帰宅部だし」

 今日は委員会で先生の手伝いをしていたら日が暮れてしまっていただけで、こんなに遅くまで学校に残るなんて滅多に無い。
 家に帰るのが遅くなることはあるけれど、それは友達と遊びに行っていたからで、学校から帰るのが遅くなるってことはそうそう無い。だから、日の長い夏にここまで暗くなった通学路を歩くのは初めてかもしれない。

「――良かった」

 佐賀くんはわたしの返答に安堵の息を洩らす。その佐賀くんの反応が予想外で、わたしは思わず「何が?」と問いかけていた。

「え」
「何が良かったの?」

 目をまるくしてわたしを見下ろす佐賀くんに再び尋ねると、彼はあからさまに狼狽した。いや、あの、なんていうか。視線を彷徨わせつつ間を持たせるように言葉にならない言葉を続ける佐賀くんのうろたえっぷりは、さっきわたしに「送る」って言った時以上だ。
 背が高くなって、声も低くなったのに、こういうところは変わらないのかな。昔は、佐賀くんのこういう姿をよく見た気がする。
 なんだか懐かしくて声をあげずに笑うと、佐賀くんは虚を点かれたような表情を浮かべた。そのまま、恥ずかしそうに視線を反らして左手で顔面を覆ってしまった。さらには「あー……」なんて呻き声まで洩らしている。隠されてしまったから表情は見えないけれど、街頭で照らされて耳輪辺りが赤くなっているのが見えた。

「偶然とはいえと一緒に帰れて良かった、って思ったんだよ……」

 佐賀くんが呻くように言った言葉の意味は、すぐには理解できなくて――脳内で咀嚼して理解した瞬間、かあ、と耳が熱くなる感覚がした。「今、名前、呼んだ?」とか「それって、どういう意味?」とか、言いたいことはいっぱいあったけれど、そのどれもが言葉にできなかった。

「……黒ノ介、くん」

 震える声で呼びながら、何にも握られていない彼の右手に左手で触れれば、すこしがさついた肉刺だらけの手が、わたしの手をやさしく、けれどつよく捕まえた。


「……かえろ、黒ノ介くん」
「……ああ」

 手は繋いだまま、歩き出す。
 さっきまでとは比べ物にならないくらい、ゆっくりとした速度で、二人。



write:2012/11/25 up:2012/11/25
くろさんはずっとヒロインさんに片想いしてたよ! でもヘタレだから思春期特有の男女の幼馴染の距離を上手く詰めれなかったよ!
成長の階段