パブからの帰り道、孤児院の前で突き飛ばされずにキスをする分岐if妄想から派生
自機PC夢主(高Submissive♀)想定ですがお好みで。
行為そのものの描写はないですが、Brothelで春を鬻いでいる描写があります。
me for only you
ほんとはずっとなきたかったの
 ――突然だが、お金が足りない。
 金曜日の朝、わたしは部屋の机に向かいながら頭を抱えていた。明日の朝にベイリーが金を回収しに来てしまうというのに、£2000にあと£900ほど足りない。厳密に言うと、ワードローブの抽斗に虎の子の£1000を隠してあるから本当に足りないわけではないのだけど、これは体調を崩したときのために取っておきたいから、いま切り崩すのはためらわれる。
 今週は確かに、冬に向けて冬物の洋服を買い足した。そして、せっかくショッピングセンターに来たのだからなにか良いものがないかウィンドウショッピングをしていたところに孤児院の部屋の扉に後付けできる鍵を見つけ、自室で「誰かが突然入ってくるかも」という恐怖を消せると精神衛生のために反射的に買ってしまった。これが結構いい値段だったので、財布には痛手だった。今朝は取り付けて初めての朝で……本当にゆっくり眠れて快適な目覚めだった。思考もすっきりしている。――だからこそ、今更ながら「長期的に積立して買うべきだった」と思い至ってしまった、ちょっと反省している。まぁ、ちゃんと眠れていなかった昨日までのわたしでは『積立』を本当に全く思いつかなかったので、今思えばだいぶ思考が偏っていたのだとおもう。落ち着いて寝られるようになったので長期的に見ればプラス……になると思いたいが、今週の支払いができなくては本末転倒になってしまう。
 今日は普通に平日だから学校がある。これから制服を着て登校しなければならない。放課後15時から速攻で働くのはまあ無理だから、16時から……ベイリーが金を回収に来るのは朝7時。半日ちょっと……と言いたいところだが、明け方まで働ける場所も限られる。半日未満の時間で£900は真っ当な手段では無茶が過ぎる。とはいえ、学校をサボって一日働いてもどうにかなる気がしない。テストがあるから正直あんまりサボりたい曜日でもないし。
 脳内で今まで経験したことのあるアルバイトを一つずつ思い出して、どれくらいもらえるか計算して……今回ばかりは、売春宿で働かざるを得ないかな、と溜息を吐く。

「……これしかないかぁ」

 タイミングを見誤らなければ、安く買い叩かれたとしても1回で£100はもらえる。うまくいけば£300くらい出してくれる人もいる。セックスへの抵抗が薄くなってしまったからといって、身体を売ってお金を稼ぐことは、積極的にしたいことではないけれど、もう今回に限ってはこれしかない。同意ではあるけれど、精神はだいぶ疲れる。非合意と比べるとマシなだけで。肉体疲労は言わずもがなだ。
 ちらりと時計を見ればそろそろ制服に着替えなければ遅刻してしまう時間帯に差し掛かっていた。小さくため息をついてパジャマを脱胃で制服に着替える。――つくづく、週£2000はおかしい。週£100の時点で、十分おかしかったとも思うけど。





 売春宿の個室を後にし、人目が無くなったところでふかぶかと息を吐く。さっきの、何人目だっけ、もう覚えてないや。体力が限界に近い。これ以上は、たぶん、無理。倒れる。考えながら、時計をぼんやりと見上げればもう20時を過ぎていた。のろのろしてたらすぐ暗くなっちゃうな。心なし歩くスピードを上げてシャワー室に入る。シャワー室には誰もいない。ここのシャワー室はあまり清潔じゃないからあまり使いたくないけれど、洗い流さずに帰るほうが嫌なので、使わざるを得ない。ブースの一つに潜り込み、コックを開ける。肌に掛かる温度が熱い。この時間ならまだお湯出るんだ、よかった。内心で安堵しながら、からだを洗い流す。
 疲労感は甚だしいが――明日支払う分に足りないのを補って、来週分の頭金に回せる分まで稼げてるはず、なので良しとする。眠気もあるが、流石に、ここで寝落ちするわけにはいかない。いっそ水が冷たい方が目が冴えて良かったかな、とぼんやり考えながら、お湯を止める。
 雑に身づくろいをして、事務室に寄って内勤スタッフに収支報告を済ませ、マージン分を抜いた今日の稼ぎを受け取った。間違いがないかクイッドを数える。ブライア自体は経営という部分では信用できるひとだが、ここの経営陣全員を問答無用で信用できるかと言われるとそうでもないので、中抜きがないかを確認する必要があるのだ。把握してる通りの金額があることを確認できたので、一礼して控え室に戻った。
 服としての意味がほとんどない疑惑のある薄い衣装を脱いでロッカーに仕舞い込み、外着に着替える。

「あら。帰るの?」

 スクールカーディガンのボタンを留めていたところに、声が掛かる。顔をあげれば、さっきまで鏡に向かいながらメイクを直していた栗毛のダンサーがこちらにひらひらと手を振っていた。わたしも振り返す。

「うん、もう体力限界」
「確かに眠そうね、あんた。まだ明るいけど気を付けて帰んなさいね」

 大っぴらに『働いている』とは言い難い場所だけれど、ここの従業員――経営側ではなく、売られる商品側のほうだ――は全員割と仲がいい。

「ありがと。そっちはこれから?」
「ええ」
「さっき例の迷惑客が来たって黒服が話してたから……気を付けて」
「うわ、最悪……気を付けるわ、ありがと」

 互いに後ろ暗いところがあるから、ほんとうの名前を教え合ったことはない。彼女の名前を、わたしは知らない。それにきっと、この建物の外で会ったとしても、お互い知らん顔をする。ここで働きたくて働いている人は、正直、あんまりいない。
 それでも、この売春宿の中で心が損なわれることのないように、ここで働く人々は表には見えないようにお互いにフォローし合ってる。

「じゃあ出てくるわ」
「うん。行ってらっしゃい」

 ステージに向かうその背を見送って、わたしも売春宿を後にする。誰にも見られていないことを祈りながらビルの裏口からこそこそと建物を出て、表通りに出る。
 とりあえずバス停の方角に向かっているけれど、どう帰ろうかな。歩きで孤児院まで帰れるだけの余力はあると思うけど、変なことに巻き込まれて全速力で逃げなきゃいけなくなったらちょっと厳しいものがある。かといってバスに乗るのも痴漢に遭いそうで嫌な気持ちがある。絶対に痴漢が出るというわけではないが、正直遭遇率が高すぎるので一人ではあまり乗りたくない。元気なら抵抗もできるがいまはその元気がない、博打は打ちたくない。じゃあやっぱり徒歩かな……。
 考えながら歩いていると、数歩先の建物からエプロンをした男性が出てきて枯葉を掃除しはじめた。見覚えのある顔だ……そうだ、たまに行くパブのスタッフだ。パブに意識が向いたとたん、身体が空腹を自覚して、くう、とお腹が鳴った。売春宿で今週の赤字を補える分は稼いだし、何なら来週の頭金に回せるだけの余裕まである。うん、パブで食事をして休憩しよう、歩く体力も戻るはずだ。
 そう決めて店の入り口をくぐる。カウンターテーブルの隅があいているのでそこを確保して、バーカウンターに向かう。

「やあ、何にする?」
「カプチーノ、と……クリームチーズとサーモンのベーグルサンド一つお願いします」

 いつもだったらパブだしサイダーとかエールとかを飲むところだけれど、いまの疲労感でアルコールを入れると最悪寝かねないレベルな気がするので、コーヒーを注文した。あと、動いて普通にお腹も減ってるので、ベーグルサンド。ここのパブはクラシカルなほうなので食事にはほとんど力を入れていないけれど、実は結構美味しいのだ。
 バーテンダーに言われた合計金額ちょうどのポンド硬貨をバーカウンターに置く。

「ちょうどだね。飲み物今出るよ。席はどこ?」
「カウンターの……8番」

 指でカウンターテーブルの隅の方を示せば、オーケーと応えがある。そして、ほぼ同時に大きめのマグカップを渡された。

「ありがとう」

 カップを受け取って移動する。背の高いスツールチェアに腰掛けて一口カプチーノを飲めば、疲労が少し融ける感覚がする。やっぱりカフェインってつよい。疲れた体にカフェインがしみわたっていくのを感じる。
 ちびちびカップを傾けながら待っていれば、スタッフからベーグルサンドが届けられる。ベーグルサンドと揚げたてのチップスがどっさり乗ったワンプレート。チップスに卓上の塩とビネガーをかけて一つ食べる。疲れてると、酸味が一等おいしく感じる気がする。
 温かいカフェインで倦怠感がすこし晴れた気がするが――カフェインは体力の前借というし、本当は別に疲れが晴れたわけではないのだろう。眠気はまだ残ってるし。へろへろがくたくたになった、それくらいの程度の効果。ぼんやり考えながら、ベーグルサンドをひとくち食べる。スモークサーモンとディルの風味がおいしい。
 うーん、牛乳とか入れてないストレートのエスプレッソにしといた方が疲れもっと取れたかも。でも、エスプレッソって量が少ないからすぐ飲み切っちゃうからご飯と飲むのに向かないしなぁ。
 とりとめのないことを考えていると、不意に隣の席の椅子が引かれる音がした。そして間髪入れずに誰かが腰かけてチェアがきしむ音。そこまで混んでないと思ってたんだけど、ぼんやりしてるうちにお客増えたのかな。
 そう考えながらも、店内の様子を確認するために首を動かすのもどうにも億劫で(やっぱり疲労感は取りきれてないみたいだ)、あたりを確認することなく食事をつづける。と、視界に手が割り込んできて、わたしのプレートからチップスが一つ奪われる。
 シルバーのリングが嵌められた、骨ばった大きな手。見覚えのありすぎる手だ。
 それを視線で追えば、奪われたチップスが隣人の口の中へ消えていく。金の長い前髪の奥、切れ長の青い瞳と視線が絡んだ。

「……ホイットニー?」
「ンな警戒心皆無でよく生きてんな、このクソみたいな街で」

 チップスを飲み込んだホイットニーがエールを片手ににやりと笑う。……確かにちょっと警戒心が足りなかったかもしれない。この町で生き抜くには警戒を疎かにしてはいけないので、言われた内容自体に特に異論はなかった。
 流石にお客として食事をしにきた店でそういう目に遭ったことは今のところないけれど、この先絶対にないとも言い切れないのがこの町のアレなところだ。

「奇遇だな、アバズレ。飯?」
「あ、うん。おゆはん……」
「へえ」

 ホイットニーが目を細めてわたしを見る。――特に含みは感じない、学内で会うときや路地裏で絡まれる時とはまた違う視線。どういう意図なんだろうと首を傾げながらも何も言わずにその視線を享受していたが、ついと逸らされてしまった。まるで急に遊びに飽いた猫のような仕草だった。
 そのまま席から立ち去るかと思ったけれど、ホイットニーはわたしの横の席に座ったままエールを飲んでいる。前にこのパブに来た時は、ホイットニーと『お友達』のグループがわいわい騒いでいて、ラガーに始まり最終的には千鳥足になるまでショットを飲まされたことを思い出す。今日もいるのだろうか、と辺りを伺ってみたけれど、店内に見覚えのある顔も特にないし、騒がしくなった感じもないので、どうも違うらしい。
 店内を見渡していると、視界の端でホイットニーの手が卓上の塩を掴むのが見えた。何か注文してたのかな、とテーブルに視線を戻すと、おもむろにわたしのプレートのチップスに塩を二振り追加して、ひとつ摘まんで口に放り込んでいた。わたしの貴重なお金で買ったごはんなのに、とは思ったが、ここのチップスは盛りがよくて一人で食べるにはちょっと多いくらいだしまあいいかとプレートを回してホイットニーが取りやすいようチップスの乗っている側をそちらに寄せる。ホイットニーが意外そうに眼を瞬かせて、口の端を吊り上げて笑う。

「殊勝だな?」
「献上じゃないから。シェアだから」

 わたしの言葉にくつくつと笑って、彼は犬や猫にするみたいにわたしの首筋に掌を滑らせて、顎の下を柔く一撫でした。別段、そういう意図のある触り方ではない。本当に、ペットを撫でるみたいな所作なのに、肩が微かに跳ねるのを止められない。さっきまでさんざん売春宿で使われて摩耗して、そういう刺激はこれ以上は苦痛でしかないって思ったのに。――それでも、ホイットニーに触られると、わたしの身体は熱を持つし、もっと触れられたいと思ってしまう。胸の中がかすかに熱を持って、羽毛が舞うような心地になる。
 わたしの反応に気づいているのかいないのか、ニヤニヤと笑うホイットニーはチップスを摘まみながらエールを呷る。――嚥下に合わせてホイットニーの咽喉仏が上下するのを見ると、無性にどきどきする。変なことを考えるな、と自分に言い聞かせながら、わたしもチップスをひとつ食べる。おいしい、けど塩気がだいぶ強い。ホイットニーは濃い味が好きらしい。

「濃くない?」
「濃い方が旨ェだろ」
「お酒に合わせるときなら確かに?」

 あと、肉体が疲労してる時は塩気が濃いものの方が美味しく感じる気はする。実際今もそう。身体に悪そうな気がして控えたけど。

「酒じゃないのかよ?」

 手元に視線を感じる。パブだぞここ、という言外の圧を感じる。その視線に気づかないふりをして、ベーグルサンドを一口食べる。ゆっくり飲みこんでから返答する。

「カフェインで目を覚まさないと寝落ちしそうだったから」
「……多少は警戒心があるようで何より」

 呆れというより、嘲笑交じりに言われる。さっき完全に無防備だったことを思い出しているのだろう。
 肩を竦めてこちらを見下ろすホイットニーは、制服のままのわたしと違って、私服に着替えている。一度家に帰ったのだろう。自分の恰好を見下ろして内心で溜息を吐く。わたしも時間に余裕があったら一度孤児院に帰って着替えたかった。遠目で「わたし」であるとはわからなくとも、近所の学校の生徒だというのはわかってしまうから、できるならこの格好で売春宿に出入りするのは避けたかったのだ。
 とはいえ、明日の朝までにお金が集まらなかった時のことを考えると、背に腹は代えられない、とも思う。
 最近孤児院で見なくなった顔を思い出すと、きゅうと胃が痛む。交流はあまり多くはなかったけれど、おなじ場所で育ったあのこはいま、どこにいるのだろう。
 強烈な不安感に、食事の手が止まった。
 ――いつもは考えないようにしているけれど、あの孤児院は、ちょくちょくひとがいなくなる。真っ当な退院を見送るのとは別に、なんの前触れもなくいなくなるひとが、いる。
 仲が良かったひとが探し人のポスターを貼るのをなんども見た。貼るのを手伝ったこともある。居なくなったひとは、数週間くらいで顔色を悪くして帰ってくることもいれば、そのまま部屋が片付けられてしまうこともあった。幼い頃は理由なんて全くわからなかったけれど、ベイリーに今まで掛けてきた金を返すまで出ていくことを許さないと言われた今なら薄々想像がつく。つくようになってしまった。……きっと、わたしと同じようにお金を請求されたひとが支払日に間に合わなくて、不足を補うためにどこかに売られてしまったんだろうな、と。

「……」

 プレートに食べ差しのベーグルサンドを置いて、皿のふちを指の腹でなぞる。今考えることじゃなかったな、と反省する。食欲がほとんど失せてしまった。チップスはいつの間にかほとんどホイットニーのおなかの中に消えていたようだからいいけど、三分の一くらい残ってるベーグルサンドは胃が重くて全然気が進まない。
 でも残したくも、ないしな……と考えながら、手持無沙汰でカプチーノのカップを両手に持つ。少し冷めたカップの温度が手のひらに染みる。飲む気にもなれなくて、ただぼんやりとカップの表面を撫でていると、不意にホイットニーの右手がわたしの左耳に触れて、そのまま手が滑らかに動いて頬に宛がわれた。

「……ホイットニー?」

 驚いてホイットニーの方を向く。どうしたの、と尋ねたけれど返事はなかった。ホイットニーは何も言わないまま、彼の指がわたしの横髪を払って耳に掛ける。かさついた指が、わたしの耳朶を辿る。
 カウンターテーブルに左腕で頬杖をついたホイットニーの蒼い目が、きんいろの前髪越しにわたしを射る。
 その視線にわたしが何も言えずにいると、頬を包んでいた彼の親指がわたしの眦を擦った。その手つきがひどくやさしく感じられて、思わず咽喉がきゅうと締まるような感覚がした。目の奥がつんと熱くなって瞳に涙の膜が張りそうになるのを、まばたきを繰り返してこらえる。やだ、泣きたくない。気まぐれに優しくされて泣くなんて、いや。
 まばたくたび、眦に触れたままのホイットニーの親指に、睫毛の先が微かに当たるのがわかる。それがくすぐったいのか何なのか、ホイットニーが微かに笑う。嘲笑でも冷笑でもない、ホイットニーにしては珍しい、苦笑と称すことができる表情に見える。

「強情なヤツ」

 ホイットニーの声が、甘い。……なんで?

「ぇ、なにが……?」
「なんでも」

 恐る恐る尋ねたけれど、誤魔化すような言葉しか返ってこなかった。ホイットニーの親指が眦から離れるので、わたしは恐る恐るホイットニーの指先の辿る動きを視線で追った。
 彼の手は、まだ優しくわたしに触れる。
 わたしの頬に刻まれた彼の“サイン”が親指でなぞられ、耳朶が柔く撫でられる。微かな刺激に反応して首が竦みそうになるのを呑み込みながら考えてみるけれど、ホイットニーの意図はやっぱりわからない。……まあ、ホイットニー自身、わたしが理解できるなんて微塵も思ってないんだろうけれど。
 耳朶を撫でた指が後頭部に差し込まれて、髪の生え際を人差し指の爪の先で柔く甘く引っ掻かれて、肩が跳ねた。わたしの反応にくつくつと笑ったホイットニーがこちらに身を乗り出して、まぶたに唇が一瞬だけ触れる。

「……え」
「ハッ、間抜け面」

 唐突な甘い愛撫に目を丸くするわたしを見下ろして、ホイットニーが嗤う。彼は窘めるようにわたしの後頭部を指で一撫でしてから手を引いた。そして、プレートからわたしの食べかけのベーグルサンドを引っ手繰って、あっという間に飲み込んでしまった。

「へえ。結構悪くないな」

 わたしが唖然としてホイットニーを見つめると、まるで何もしていませんが? と言わんばかりの顔でパイントグラスに残っていたエールを一気に飲み干して平然としている。

「何か文句でも? アバズレ」

 片眉を上げた皮肉気な表情で問われる。ああ、この表情は、いつものに近い。
 反射的に首を横に振った。文句なんてない。食欲は完全に失せてしまっていて食べきれる気がしなかったので、逆にありがたさすらある。

「……ううん、無い。むしろ、助かる」

 なので、そう素直に返した。
 わたしの素直な言葉に面食らったらしいホイットニーの意外そうな表情から逃げるように視線を逸らして、誤魔化すように両手で包んでいたカップに口を付ける。食欲はもうほぼなくなっているけれど、飲み物なら辛うじて完食……いや完飲かな、できそうな気がする。ざんねんながら、満腹になって食欲がなくなったわけではないので。
 ホイットニーからの視線が顔の左半分に突き刺さってるのを感じる。が、ちょっと気恥ずかしさがあるので気にしないふりをした。
 ちびちびとなめるような速度ではあったがカプチーノを飲み終えて、テーブルにカップを置く。お腹が温かくて、だいぶ動く余力があるような気がする。うん。これくらい体力回復すれば、歩いて帰っている最中に何かに巻き込まれかけても、全力で走って逃げられそう。
 店の入り口のドアの方を伺う。外はもうだいぶ暗い。のろのろしている内にだいぶ経ってしまっていたようだ。これ以上遅くに外を出歩くのは普通に危ない。この町は身の安全を考えると日が出ている間にのみ外で活動するように心がけるのが一番いい。……まあ、出てる間でも割と治安よろしくないけども。
 スツールから降りようと身を起こすと、わたしの左隣にいたホイットニーもスツールから立ち上がる。……一杯だけで帰るの、レアケースでは? いや、彼がひとりで飲酒をする姿を見るのは今日が初めてだからわたしが知らないだけで、一人のときは軽く一杯飲んで満足しちゃうタイプなのかもしれないけど。それでも意外で、立ち上がりかけた姿勢のまま、ぽかんとホイットニーを見上げてしまった。
 呆れた溜息が落ちてくる。

「クソ穴に帰んねえの?」
「ううん、帰る」
「じゃあ早よしろ」

 急かされるままにスツールから降りると、右の腕を掴まれた。ホイットニーは特に何も言わずに、慣れた動作でわたしの腕を引いて歩きだした。学校でもそうでないところでも、彼がわたしを自分のしたいようにするのはいつものことなので、わたしも特に何を意識することも抵抗することもなく彼に腕を引かれるままついてゆく。ホイットニーは人出が多くなったパブの人波を容易く掻き分けて――彼は上背もあるのでわたしが一人で店を出るよりよっぽど効率が良いな、とぼんやりと思う――退店し、ハーベストストリートを歩いていく。わたしはそれを腕を引かれるまま追いかける。
 今日は珍しく霧が出ていないから、月明かりで道がいつもより明るい。ここは街頭がそう多い方ではないから、星までよく見える。
 ハーベストストリートを出て工業地区の路地に差し掛かったあたりで、腕が解放された。離れていく手を、ぼんやりと見送る。……ちょっと寂しいな、と思った気持ちを振り払う。
 彼は足を留めたり早めたりすることはなく歩いている。コヌダトゥスストリートのほうに住むホイットニーとドムスストリートに住むわたしはここからなら方角が同じなので、わたしもそのまま彼の隣を、変わらないペースで歩き続ける。ちらりと見下ろされたが、突き飛ばしたりせずにそのままわたしの横を歩いてくれる。――彼に近くにいることを許容されるのは、うれしい。
 夜のハーベストストリートも見えるところの人はあまり多くなかったけれど、路地に入るといっそう人がいない。夜だから、埋立地の騒がしい音も工場の稼働音もしない。遠くで車の行き交う音はするけれど、この路地そのものはしんと静かだ。ホイットニーの足音とわたしの足音だけが、ふかく響く。

「さっき」

 そのしじまを、ホイットニーの不意な言葉が破った。わたしは視線をあげて彼の言葉の続きを待つ。月明りを背にわたしを見下ろすホイットニーの青い目と、視線が絡む。

「お前、泣くかと思った」

 彼がわたしを見下ろして言葉をつづけた。ばれているとは思わなくて、言葉が一瞬止まる。

「……どうして?」
「そう見えた。――それだけだ」

 思ってもみなかった言葉が返されて息が詰まった。わたしがいつもと違うと、明確に気付いていたらしい。なんで急にやさしくあまく触れてくるのって思っていたけれど、理由まではわからなくてもわたしが泣きそうに見えてたからか、と腑に落ちた。
 ホイットニーは存外、わたしの心がトラウマとフラッシュバックで完全に折れそうなときその場に居合わせたら、学校にいたとしても気を回して手を貸してくれる。俺のアバズレなんだからこんなことで折れんな、て感じで、慰めてくれるとか受け止めてくれるとかそういうことはないけれど、それでもホイットニーの突き放すようでいて引き上げてくれるところ、わたしは結構好きだ。

「……ホイットニー、意外とわたしのことよく見てるよね?」
「言ってろ」

 嬉しいという気持ちを隠しながら揶揄うような口調で言うと、額を指で弾かれた。反射的に額を押さえて呻く。指が長いから軽くしただけでも威力が十二分にある。普通に痛い。
 恨みがましい目でホイットニーを見上げれば、彼はわたしの反応を面白がるように唇の端を吊り上げた。いつものシニカルな様子はもちろんあるけれど、普段わたしが見るよりだいぶ邪気がない……ように、見える。
 ホイットニーは自分のことをめったに話してくれないからいろんなこと推察する必要があるけど、今日は一等難解だ。学校ではない上に、彼の「お友達」がいなくてふたりきりとはいえ、いつもより明確に優しくされていると感じる。わたしが泣きそうだから? ……いや、そういう殊勝なことを考えるひとは、学校で彼に苛められて耐えられず泣いたわたしを愉悦に満ちた顔で手酷く犯したりはしないな。それに、今はきっともう、そんな泣きそうな顔をしていないはず。
 路地からオックスフォードストリートを横断する。隣接する公園に入って、商業地区の方に向かう園道を歩く。遠くに見える商業地区のネオンの灯りが眩い。さっきまで、星まできれいに見える暗さの道を歩いていたからなおさら。公園の歩道は夜だけあって人はまばらだけれど、ときどきジョギングしている人なんかとすれ違う。春には色とりどりのチューリップが咲き誇る花壇のあたりには、ちょうど今の季節が植込みの時期だからか、しまい忘れられたらしい園芸道具が落ちている。
 公園のちょうど中央辺り大きな噴水のある広場に出る。雨の日の放課後にホイットニーと二人で話すところなので、馴染みがある広場。……なのだけど、雨が降っていない日の公園にホイットニーと一緒にいるから、なんだか不思議な感じもする。ここの噴水は夜でもずっと動いているらしい。まだ昼は暑いから噴水のしぶきも心地いいけれど、流石に夜の噴水はちょっと肌寒い。腕を撫でる。そろそろカーディガンを羽織っただけは夜出かけるには寒すぎるかな。――でも、街頭に照らされる噴水、きれい。

「おい」
「え?」
「よそ見してんな」

 ぼんやりと噴水を見ながら歩いていると、わたしの腰にホイットニーの腕が回されて引き寄せられた。なんで? と一瞬首を傾げかけて――噴水の方に関心が向いて足元がお留守だったらしい、道を斜めに進んでいて縁石につまずく手前だったことにいまさら気付いた。

「気ィつけろ」
「うん……ありがとう」

 素直に返せば、呆れ交じりの溜息が落ちてきた。腰を抱いて引き寄せたままの姿勢だから、思ったより近くから聞こえてちょっと驚いた。すぐ解放されるかと思ったのに、ホイットニーは腰を抱く手を解きもせずにそのまま歩みを再開した。
 わたしも腕を回してよかったりする、のかな。ちらりとホイットニーの顔を伺うけれど表情は読めない。さすがにそこまでの勇気は出なくて、おそるおそる彼の肩というか二の腕の辺りに頭を預けるように身を擦り寄せてみれば、わたしの腰を抱く手の力が微かに強くなった。お咎めでは、なさそうかな。許容されたと認識して、彼に寄り添ったまま歩く。さっき肌寒さを感じてたはずなのに、ホイットニーに触れられているところから熱が伝播するみたいに、あつい。わたしが触れたところからも、熱が伝わっていればいいのに、とぼんやり思う。
 わたしにとってホイットニーは不可思議な男だ。わからないところばかりある。けれど――わからないからこそ、彼の内心を少し窺えるだけで嬉しくなる。もっと知りたいな、と、惹かれてしまう。こうやってひとは耽溺して、情を抱くのかもしれない。ひとの心はブラックボックスだから、何が感情のトリガーになるのか、ほんとうに読めない。
 公園の遊歩道からハイストリートを渡って、商業地区の路地に入って歩く。商業地区の表通りは場所柄夜でも人が行き交うので、自然と路地にも人がいる。大通と比べたらもちろん少ないけれど、工業地区や公園の比ではない程度には人がいる。建物の隙間からコヌダトゥスストリートの明かりが差し込んで、わたしの影とホイットニーの影がひとつの影になって路地に伸びている。
 コヌダトゥスストリートは昼と夜とで姿が違う。今の時間帯は、絢爛で猥雑という言葉が相応しい通りだと思う。通いつめて見慣れてしまった、絢爛と猥雑の権化のようなストリップクラブのネオンは相変わらずきらびやかだ。不本意な行為はあまり発生しない割と厳格な職場だと思うけど、この感覚はこの都市に感化されてるせいだな、とも思う。
 この街はあまりにも頽廃的すぎて、じぶんの価値観も気付いたらそれに迎合する形で歪んでしまう。
 そして、その自身の考えの変化には、意識しないと気付けない。知らないうちに、自分の思考が、塗り替えられてしまう。――急な不安感がまた微かに頸を擡げそうになる。それから逃げたくて、ホイットニーの二の腕にすり、と頬を擦りつけてぴっとりとくっついた。あたたかい。わたしの急なじゃれつきをどう思ったのか、ホイットニーはわたしの腰ともお尻ともつかない位置を軽く叩いてくる。優しく宥められたような心地で、胸の痞えがおりるような感覚がして不安が溶けてうすく消えていく。わたしの内心なんて、ホイットニーにはきっととりたてて意識するようなものではないだろうし、なんならどう考えてるのか知っていてなお無視するものだろう。気紛れだとしても、わたしがほんとうに限界な時には優しくされるから、わたしはそれにちょっと甘えてるし救われている。……深みにも、嵌っている気がするけど。ああいうのを飴と鞭っていうんだと思う。
 ホイットニーの家がある方に向かう小路を素通りして、住宅街の細道に入る。わたしを孤児院まで送ってくれるらしい、といまさらながら理解する。前にもパブから送ってくれたことはあったけど、そのときはわたし足取りが本当に覚束ないレベルでへべれけに酔っていたから、流石に放置は目覚めが悪いと思われたのだと思ってた。……わたしが素面でも、送ってくれるんだなぁ。胸の裏が温かくなる。うれしい。
 裏道からドムスストリートに曲がって道を進む。数分もしないうちに、孤児院の背の高い塀が目に入る。――相変わらず、檻のようだ。

「送ってくれてありがとう、ホイットニー」

 今日のわたしは精神も肉体も結構限界に近いかんじだったから、帰り道を安心して帰れたのは本当に助かった。彼からの返事は特段ないけれど、逆に突き飛ばされたりといったこともされないので、わたしのお礼がホイットニーにきちんと受け入れてもらえたのだと理解する。彼は自分のことはあんまり話してくれないけれど嫌なときは我慢したりする方ではないから、拒否の態度が出ていないということはそういうこと。
 孤児院の外階段の前で立ち止まる。……もう着いちゃった。離れるのが名残惜しくて、ホイットニーの顔を見上げる。視線が絡む。わたしの腰に回った彼の手も解かれない。……あつい。
 胸の奥がそわそわしてどうにも止められなかったので――ホイットニーに寄りかかるように身体を支えながら背伸びをして、ホイットニーの首に腕を回して顔を寄せて、くちびるに触れるだけのバードキスをした。

「……え、と。送ってくれたご褒美、なんて」

 彼の唇に顔を寄せたまま、そう告げる。気恥ずかしさはあるけれど、確かに自分自身が望んで自分でした行為だから自身のことをコントロールできている、という自尊の感覚が沸いて心が落ち着く。こういう、些細なふれあい、好き。
 もう一度触れるだけのキスをして、首に回した腕を解いて背伸びを止める。彼と離れるのは名残惜しいけれど、流石にそろそろ離れないとだめだと思うので。ホイットニーに寄りかかっていた身体を引こうとすると、ホイットニーの左手にわたしの右手が捕まえられた。え、と言うより早く、てのひらが重なり合って、お互いの指間腔のうすい皮膚をすり合わすように指が絡められる。ホイットニーの熱い温度が、絡まった手から伝わってくる。
 視線をそろりとあげてホイットニーを見上げれば、欲に濡れた目で見られていることに気付く。じわじわと、全身が熱を持つ。羞恥で反射的に顔を下げれば、ホイットニーが身を屈めてわたしの顔を下から覗き込んでくる。捕まえられた右手が持ち上げられて手の甲がフェンスに留められるのとほぼ同時に、下から掬い上げるように唇が重ねられた。
 唇で長く触れるだけのキスを数度繰り返して、ホイットニーの唇が離れる。傍若無人なくせに、ホイットニーは自分本位なキスをあんまりしない。最初は軽く、最後はぐずぐずになるように、すこしずつわたしを蕩かしてくみたいなキスをする。
 わたしの脚の間に彼の片膝が差し込まれて、がしゃ、と金属の高い音が鳴った。その音に気を取られていると、彼の右手に頤を掬われて、ホイットニーと視線が合う。そのまま顎の下を柔くくすぐられて息が漏れるのを、楽しげな顔で見下ろされている。ホイットニーの右手が顎から離れてわたしの背に回された。ホイットニーのおおきな右手がわたしの背骨をなぞり、彼の唇が軽いリップ音を立てて口の端にキスをする。甘く吸うみたいなキスが、わたしの口の形をたどるように、少しずつ位置をずらして何度も何度も落とされる。
 ホイットニーの唇に触れられるたびに頭がくらくらして、身体から力が抜けそうになる。唯一自由な左手で彼のスタジャンにしがみつきながら、それを受け止める。――ホイットニーはキスの最中、目をつむらない。ふと目を開けたとき、いつも彼の青い目と視線が合う。その目に浮かぶ欲の色にわたしも感化されて、背中がぞくぞくして止まらない。
 わたしの唇に触れたホイットニーの唇を、舌の先でちろりと嘗める。わたしの舌に一瞬動きを止めたホイットニーは、やり返すようにわたしの下唇を甘噛みして、やわく唇で食んでくる。じわじわ甘い快感で脳が蕩けそうになる。もっと欲しい、という衝動が沸き上がる。そのまま、ホイットニーの唇に甘噛みをし返して、噛んだところを舌先でゆっくりとなぞって愛撫すれば、舌が彼の唇にやわらかく挟まれて動きを阻まれる。ちゅうと音を立てて舌を吸われれば、快感が背筋に走った。

「舌もっと出せ」
「ぅ、ん」

 囁かれたので反射的に肯いて舌を大きく出せば、彼の舌に絡めとられる。舌裏を尖らせた舌で愛撫されると、あまりの気持ちよさに頭がくらくらする。快感から逃げそうになるわたしの舌を、ホイットニーは窘めるように甘噛する。その刺激にびくんと体が震えて腰が抜けかけて、自重で脚の間に差し込まれたホイットニーの膝に自ら秘所を押し付けそうになるのを必死にこらえた。彼にしがみつく手の力を強めて、応えるようにこちらからも舌を絡め返す。
 ホイットニーの舌は微かに苦い味がする。いつも吸っている煙草の重いニコチンと、あと、今日はもしかするとアルコールも残ってるかもしれない。前は苦いの全然好きじゃなかったのに、今はむしろ、この苦みに逆に落ち着くようになってしまった。苦みのある舌に舌が包まれて揶揄うみたいにちゅっと吸われると、酩酊するみたいな心地がする。この味、すき。
 しばらく舌だけで触れ合うキスをくりかえしていたホイットニーの舌を唇でやわやわと食んで、ちう、と緩く吸いつく。吸いながら、こっちに来てと誘うみたいに舌で彼の舌の裏をゆるく撫でるのを数回繰り返せば、誘われてくれたホイットニーが顔を傾げて舌をわたしの口内に滑り込ませた。それと同時に背に回された彼の手に尾てい骨から背骨にかけてを撫で上げられて、思わず鼻から声が漏れた。
 唇と唇を振れ合わせながら、舌を絡める。絡まる舌が立てる水の音が口内から直接頭蓋に響いて、脳髄が痺れるみたいにどきどきする。舌の根元から舌先までをねっとりと絡ませるのは、頭がくらくらする暗い気持ちいい。上顎を舌で愛撫されながら、とろとろとホイットニーの唾液が口の中に注がれる。ホイットニー、こういうの、好きだよね? 意図はよく、わからないけど。そろりとまぶたを押し開けて、ホイットニーの瞳を見つめながら注ぎ込まれた唾液をこくこく喉を鳴らして嚥下すれば、よくできましたと褒めるように腰を撫でられた。
 ホイットニーの唇がすこしだけ離れて、舌がゆっくりと引き抜かれる。そして、また触れるだけのキス。長いプレッシャーキスのあと、ホイットニーの顔が離れていく。さみしい、行かないで、とスタジャンにしがみつく手を引きそうになったのを慌てて留めて、掴んでいた手をゆっくりと開く。ずっとしがみついていたから、手の関節がぎこちない。

「褒美っていうなら」

 ホイットニーの熱い吐息交じりの声。さすがの彼も、少し息が上がっている。左耳に唇が寄せられて、耳介に唇が触れたまま低声で囁かれて身体が震えた。

「これくらいはもらわないとな、アバズレ」

 耳輪に歯が柔く立てられて、その丸いラインを濡れた舌でなぞられる。ぢゅ、とわざとらしい音を立てて吸われれば、耳元で聞こえる水音に脳がバグを起こしてわたしのおなかの奥が熱くなる。わたしの身体の反応に気づいているのだろう、耳輪に唇が触れたままホイットニーが浅く笑う。彼は唇を耳から離して、満足そうな顔でわたしの両眼を見つめている。
 ホイットニーの指がわたしの眦を撫でて、ついでに頬に刻まれたタトゥーもなぞられた。彼に刻むよう強いられた所有印。消すタイミングを見失って、もうずっとそこにあるサイン。それを撫でながら、ホイットニーが笑う。
 フェンスに押し付けられていた右手も解放されて、ホイットニーの身体ごと離れていく。

「遅くまで遊んでんなよ? 今日は早く寝とけ」
「うん。……おやすみ、ホイットニー」

 わたしの素直な返答を鼻で笑ったホイットニーは、特にそれには答えずにわたしに背を向けた。足早に路地へ曲がって消えていく背中をぼんやりと見送る。胸によぎったさみしいという感情を押し込んで、階段を上って孤児院の玄関をくぐる。この時間はもうだいたいの人は寝ているから、孤児院の中はしんと静まっている。――ただいま、クソ穴。ぼんやりと、ホイットニーのここの呼び方を思い出しながら小声で嘯いて微笑む。
 ホイットニーとの玄関前でのキスは、たぶん、誰にも見られていないだろう。内心で安堵の息を吐いて、唇に指を触れる。
 ああ、……まだ、あつい。
write:2024/08/07 up:2024/08/08
「パブから送ってくれてるさなかのやりとりが見たい」「孤児院着いた後突き飛ばされないでキスする分岐欲しい」という願いのバリューセット。
なお、MCの自覚としてはホイットニーにやさしく撫でられて泣きかけたと認識してるけど、
眦に触れたときに指先が濡れる程度にはほぼ泣いてます(TraumそこそこControlも結構減ってる想定)。
何考えてんのか知らねえけど泣いてんなコイツ、てホイットニーは思ってるし、
自分が関係ないことで泣かれるのが気に食わないので優しくしてる。
ほぼ泣いてるのに今更こらえたって無意味だろ、とも思ってるので「強情」って笑った。