喉の奥に大量に注がれた精液を飲み干していると、耳が柔らかくなぞられた。そろりと視線をあげれば、満足げに笑っているホイットニーと視線が合う。延々と説教をしていたレイトンはいつの間にか執務室を出ていったようで、ホイットニーは視線だけじゃなくて顔ごと机の下でひざまずいているわたしを見下ろしている。
ホイットニーの熱い手が、わたしの顎の付け根をくすぐった。促すような動きだったので、それに従って口を開いて見せる。
「上出来だ、アバズレ。またな」
状況を完全に把握できていないわたしをデスクの下に取り残して、ホイットニーが寛げた服を整えながら空き教室から出て行くのを、ぼんやりと見送った。……もう終わりらしい。わたしも机の下から這い出て、身を整えながら部屋を後にする。
放課後の廊下は人がだいぶまだらだ。レイトンの執務室から出たのを誰にも見られたくなくて足早に廊下の角を曲がって息を吐く。喉奥に射精された精液は全部飲み込んだものの、舌にはまだ青臭い味が残っている。もう数え切れないくらい回数ホイットニーの精液を飲まされてるのに、いまだに味に慣れない。数学の授業中にわたしを机の下に押し込んで口で奉仕させるのは割と日常茶飯事、何なら普通にセックスしててコンドームに出した精液を自分の口に含んでキスでわたしの口に唾液混じりの精液を注いで飲み干させるなんてこともするほどホイットニーはわたしに飲ませたがる。いじめの最中に限らず、合意のときも飲まされるので、純粋にそうさせるのが好き……なんだと思う。理由はいまいちわからない。飲み干したのを口を開けて見せると満足そうな顔をするので、いわゆる性癖ではなく支配欲とかそういうものなのかなと思ってはいるけれど、実際のところはわからない。
唾液を飲みこんでみたものの、口の中の苦みは消えない。ホイットニーに全部飲め、と言われて飲んだから残ってはいないはず、だけど。舌の根元にまだ精液が残ってるのかと錯誤するほど青臭い味が残っているし、咽喉に何か引っかかってる感覚がある。……口、濯いでから帰ろう。小さく息を吐いて、人がまばらな廊下を歩いてトイレに向かう。
向かいながら、ホイットニーにいじめの一環で男子トイレを使うよう言い含められていることをふと思い出す。うーん、あの命令、放課後も有効範囲なんだろうか。ホイットニーとそのお友達各位に女子トイレに居るあるいは女子トイレから出たところを見られるとまあそこそこ酷い目に遭うんだけど、逆にそれ以外の人に男子トイレにいるところを見られるとそれはそれで普通に別の問題が起きるから、時と場合と様子を見てどちらを使うかを決めている。今はどうだろうか。
ここに連れてかれる前に、ホイットニーが『お友達』に先に帰ってろって伝えてたから、まあお友達各位はおそらくもう学校にいないだろう。ホイットニーもホイットニーで、普通に罰則が終わってわたしを置いて部屋から出た後はそのまま学校から出て先に帰ったお友達と合流している、と思う。だから、女子トイレを使っても咎める――いや『咎める』はなんかニュアンスが違うかな、いちゃもんつけるって言う方が妥当かな――ひとは今の時間はいないと考えてだいじょうぶな気がする。じゃあ女子トイレでいいか。考えながら角を曲がって、女子トイレを覗き込む。……誰の気配もないので、そのまま入って洗面台に向かう。一番奥の洗面台に立って鏡を覗き込めば、鏡面に映ったわたしの口の端にホイットニーの精液が残っているのに気づいた。さっきの行為を思い出してじわりと耳が熱くなるのを誤魔化すように、慌てて左の人差指でそれを掬った。反射的に、なんの意識もせずに、その指先を口に含む。――別にホイットニーの前にいてチェックされてるわけじゃないんだから、洗い流してよかったのだと気づいたのは、舌で精液を舐めて飲み干してからだった。
「……無意識ってこわい」
思わず呻く。……流石にちょっと、道徳的にどうかと思う。わたしの今の振る舞いを見たホイットニーがニヤニヤと笑う図がたやすく想像できる。あるいは、わたしの堕落に満足そうな顔をするかもしれない。何にせよ、ホイットニーお好みのふるまいが板についてしまったなあ、と思う。元々のわたしはそういう振る舞いをする方ではなかった、はずだ。お金を稼ぐため、いじめを切り抜けるため、あまり大きな声で言えない経験を重ねて、気付けばわたしはそういう振る舞いを自然にしてしまうようになっている。
溜息を吐いて、蛇口をひねって石鹸で手を洗う。少なくとも、ベイリーにお金を返し終わって週£2000を稼ぐ必要が無くなったら、わたしはこんな無茶なお金稼ぎはしないし、いずれ学校を卒業したらいじめられることもきっとなくなる。そうなったら、状況に適応して後天的に「こう」なってしまったわたしの逸脱した振る舞いは不要なものになって、表に出ることはなくなる、と思っている。そうなった時、きっとホイットニーはわたしを、遊び飽いたおもちゃを捨てるように手放すんだろう。――そのときが来るのが怖い、と思う自分が、確かにいる。この街のひずんだ価値観に迎合しきってはいけないと思っているのに、何時か確実に来るだろうホイットニーとの別離の日を思うだけで、胃が重くなる。
洗い終えた手を流す。泡が水に流されて排水溝に吸い込まれていく。自分の感情もこれくらい簡易に洗い流してリセットできれば楽なのに、なんてとりとめのないことを考えた。無いものねだりなのは流石に自分でもわかっている。ベイリーにあとどのくらいお金を払えば良いのかもわたしは知らされていないから、この日々がいつまで続くのかわたしには全くわからない。いつか来るはずの『終わり』がいつになるのかわからないのを良いことに、もうしばらく見ないふりを決め込むことにする。まだ終わりに備えるだけの心の準備ができていないのだ。まだ考えなくて良いことは、考えないようにしたい。
弱虫だなあ、わたし。考えながら、合わせた両手の中に水を溜める。溜まった水に口を付けて口内をゆすいでいると、となりの洗面台に人が立ったのが気配でわかった。
「あら?」
隣の洗面台から、声がした。――明らかにわたしの方を向いての発声だ、というのが感覚でわかる。バスの中や学校でも覚えがある、周囲の人が声を潜めてわたしの陰口……というか悪い意味の名声について話しているのだと気付いてしまった時に感覚が近い。うーんやだなぁ、最後に一回口をゆすいだら早々に退散しようと手の皿に口を付けようとしたところに、隣人がわたしの洗面台の方に一歩近づいたのを感じ取る。鏡越しに様子を窺いながら身構える。――陰口で終わらないやつかもしれない、これ!
「アバズレちゃんじゃない、女子トイレにいるなんて悪い子ね?」
なるほどホイットニーの取り巻きの一人でしたか……と内心で呻く。みんなあの時先に帰ってくれていたのだとばかり、と思ったものの、ホイットニーとその友達グループも常に全員が一緒いるわけではないか、と納得する。割といつも一緒にいるイメージだけど。執務室に引きずり込まれる前何人いたかは思い出せないけど、確かに全員では……なかったと思う、たぶん。わたしに直接《・・》手を出すのは九分九厘ホイットニーで、正直な話他のメンバーは顔はわかるけど名前までは一致しない人のほうが多い。数学の授業中ホイットニーの近くに座ってるお友達とはちょっと話すので、同じ数学を取ってる人だけは顔と名前が一致するけれど、逆に言えば他の人は本当にわからない。この子は――確かに顔は見覚えはあるけれど、会話はしたことがない子だ。
「アバズレちゃんがこっちにいたら使って良いって言われてるけど」
「……」
「今日はオンナノコ使う気分じゃなーい」
なんで今いるの? もっと違う時間にいてくれたら使えたのに。と理不尽なことを言われて辟易してしまった。答えに困って、もう濯ぐ必要もないのにもう一度口を濯いで、水で口がふさがって返事ができなかったふりをして彼女の言葉を黙殺する。
ホイットニーの後ろにいるのをなんどか見かけたことがあるだけで、この子との接触なんて、たぶん手足を拘束されたとかいじめられてる最中の絵面を写真に撮られたとかそういうのくらいで、彼女単体を個として接触したのは、これが初めてといっても過言ではない。特段話すべきこともないのだけれど、何も言わないでいて「無視?」と逆上されて暴力をふるわれても困るし、かといって下手なことで話しかけて「馴れ馴れしい」とこれまた機嫌を逆なでして乱暴されてしまう可能性もあるわけで。どれくらいの温度感で話して良いかもわからない。……どうしよう。こまった。蛇口を閉めて、ポケットから出したハンカチで手を拭く。
「ぇ、と。わたし……もう、帰るので」
少し悩んで、おそるおそる彼女に声を掛ける方を選択した。何も言わずにここを後にするほうが印象が悪くて禍根が残りそうな気がする。
半眼でわたしを睨め付けるように見ていた彼女が、わたしの言葉に眉を顰める。そして、もう一歩わたしに近寄った。進路が塞がれる。……何も言わない方が良かったのかな。
「やっぱアレの歴代の誰とも系統違うわよね。ねぇ、アバズレちゃん?」
腕を組んだ彼女が嘲るような口調で言った。わたしの言葉に対するいらえではない。何の話をしてるんだろう、と内心で眉をひそめるけれど、わたしと彼女の共通の話題なんてひとつ――一人だけだ。察するに、お前どう見てもホイットニーの好みじゃないのに何で恋人やってるわけ? という嫌味なのかもしれない。
あんな傍若無人な態度をとっていても、ホイットニーの周りにはいつだってひと――好意的に言えば友達で、割と悪意のある言い方をすれば取り巻き――が絶えない。学内の生徒はおおむね彼を怯える人間と彼を信奉する人間との二種に大分できて、ある意味カリスマ性があるとも言えるのだろう。ホイットニーの『お仲間』にはもちろん後者の人間が多いわけで――ホイットニーに恋人として扱われるようになってから、ときどき、『お仲間』の中にわたしを見る視線が厳しい人が混ざるようになった。きっと、わたしを厳しい目で見る彼らにとって、わたしはホイットニーの恋人として役者不足だということなのだろう。
「……ホイットニーの、話?」
場を誤魔化そうとわかり切ったことを聞けば、彼女は肩を竦める。
「そりゃそうでしょ。それともアバズレちゃんは他にも恋人いるの?」
「わたしはそこまで器用じゃないかな……」
少なくとも、わたしは恋人を同時に複数持てるような気質ではない。……ホイットニーはわからないけれど。そういう気持ちを込めて返す。
「あら、知らないの? 今は全部切ってアバズレちゃんだけよ」
「え。……そう、なんだ」
ぜんぶっていった。ふくすういたんだ。――まあ、そうだよね、ホイットニーに恋人いなかったたわけないよね。彼女の口ぶりから察するに、相当遊んでいたのだろう。オープンリレーションシップを地でいく人だから同時に複数いたのも意外ではない。むしろ、今わたしだけが恋人だという方が逆に意外ですらある。わたしが知らないだけでホイットニーには他にも恋人がいて、わたしにやらないような普通のデートとかはそっちとしてるんだろうな、と思っていたので。
――わたしはホイットニーの人間関係なんて碌に知らないのだな、と思うと胃の奥が重くなる。
ホイットニーの一等仲良しの男の子がグループ内にいることは知ってるけど、それが誰かまでは知らない。ホイットニーとのやり取りを見る限りうっすらこの人かな、と思ってる人はいるけれど確信まではない。知らされていない。わたしはそういうことを教えてもらえない。さみしい、と、思う。
この子は、わたしの知らないホイットニーを知ってるんだな、と思うと、羨ましい。
「ホント、何でアバズレちゃんがこんな続くの。わかんない」
彼女の指がわたしの首の下、鎖骨と鎖骨の間に触れた。つやつやな長い爪がきれいだな、と現実逃避じみたことをぼんやり考えて反応がワンテンポ遅れる。つつ、とゆっくり指が動いて、身体の線を辿るように下に動かされる。
「……な、んの話?」
尋ねる声が震えた。
反射で身を引きそうになったけど、掴まれて制服が破かれでもしちゃったら困る、と考えると動けなくなってしまう。彼女の指が制服越しに鎖骨の合間からおへそまで線を書くように辿るのをこわごわ見つめていれば、ふっと鼻で笑われる。
「――エッチで可愛いのは認めるわ。ちょっかい掛けたくなるのも、まあ、わかる」
彼女はわたしの問いには答えずに、吐き捨てる。
「でもせいぜいファックトイでしょ」
射るような視線と、突き刺すような低声。教科書にも載せられるお手本のような罵倒に逆にぽかんとしてしまう。ホイットニーのことをそういう意味で魅力的だと思っている人が取り巻きに含まれているのは知ってはいたけれど、ここまで明確に嫉妬交じりの悪意をぶつけられるのは初めてだ。あからさまな敵意に眉を顰める。
「ホント、理解できな――」
「……でも、ホイットニーがわたしで遊ぶって決めたから……」
彼女の言葉をさえぎる。ホイットニーにとってわたしがオモチャでペットだろうことはわたしが一番よくわかっている。でも、それでも、わたしで遊ぶと決めたのはホイットニーで、わたしをガールフレンドにしてやる、と言ったのもホイットニーだ。拒否権なんてなかった。そこにわたしの意思は介在していない。わたし自ら志願して彼のオモチャをしていると思われるのは流石にちょっと不本意である。
わたしが反撥するとは思っていなかったのか、彼女は眉を上げる。何か反論しようとしたのか、彼女が一瞬口を開いて――何も言わずに口を噤んで舌打ちをした。苛立たし気にわたしを睨みつけるその瞳の奥に、確かな緑色を見た。グリーンアイドモンスター、という単語がふと頭をよぎる。
言わない方が良かったかな、失敗したかも……とは思うものの、一度口から出した言葉は取り消せない。
「だから――わたしに言われても、困る」
わたしに決定権はない。――少なくとも関係が始まった時には一切なかったし、たぶん今もそうだと思っている。
わたしはホイットニーのことが好きで、彼のガールフレンドのポジションに居はしているけれど、わたしと彼の関係は対等ではない。ホイットニーがわたしのことをそういう意味でちゃんと好きでいてくれているのか、正直なところわたしにはよくわからない。彼の言う『ガールフレンド』が、わたしの認識しているそれと一致している――そんな保証はどこにもない。屋根裏で籠の底に隠すように渡された、ただ一度だけの『愛してる』をわたしは未だに宝物のようにしまっているけれど、ホイットニーがわたしに感情の一端をわたしに言葉で示して渡してくれたのは、あれが最初で最後だ。
……わたしはむしろ、友達と一緒に笑い合うとかそういう時間を共有できてるあなたのことが、うらやましいのに。
まあ、一緒に周囲をいじめたりしたいかと言われると全然そうは思わないのだけれど。……だからホイットニーの(友達としての)お眼鏡にわたしは適わないのかも。ホイットニーとわたしの共通点は、残念ながら、そう多くはない。そういうのどうかと思うってところもいっぱいあるのに好きになってしまうのだから、人の心は不思議だ。
「――流石アバズレちゃんね、本当にお口が上手」
気にくわない、というのがありありと出ている口調だった。慣用句としての意味がないわけではないんだろうけれど、多大な含みを感じる。
言及された自分の口を意識して――ああ、わたしがさっきまで何をしていたかを示唆されたのか、と理解する。……この子のこと、わたしがホイットニーにレイトンの執務室に引き摺られたあのときに不在だったんだと認識してたけど、もしかすると、あの後グループから抜けて学校に滞在してただけなのかもしれない。……いや、まあ、どっちでもいいか。ホイットニーの取り巻きなら、わたしの口どころか全身のいたるところがホイットニーに使われているのを、とてもよくご存じだ。見せたいわけでも知られたいわけでもないのに。
「精々飽きられるまでは楽しんでれば」
どん、と肩を強く押される。勢いが本当に強くて、姿勢を保てずに床に崩れ落ちてしまった。トイレの床に座り込んだわたしに「そこがお似合いよ、アバズレちゃん」とあざ笑って彼女は身を翻す。返答もできず彼女の背中を見送った。
飽きられるまで。心臓に言葉が突き刺さる。――彼女が入ってくる前まで、ちょうど考えていたことだった。
「そんなの、言われなくても、ずっと前からわかってる……」
わたしの小さな声は、もう誰もいない空間にむなしく響くだけだった。
のろのろと立ち上がって、制服の埃を叩いて払う。床に突いてしまった手をもう一度洗って、廊下に出る。まだ最終下校まで時間はあるはずだけど、人気はもうほとんどない。重い気分のまま廊下を歩いて、正面玄関から外に出る。空には薄雲が掛かっていて、相変わらずの曇天だった。この国の典型的な天気だ。小さくため息を吐く。
まだ孤児院に帰りたい気分じゃないけれど、かといってどこかでアルバイトをできる精神の元気もあんまりない。仕方なく、いつものように孤児院に帰宅する方角へと歩く。学校の正面のオックスフォードストリートをいくらか進んで、隣接する公園に入る。人目のない道を歩くより安全なのでいつもの経路だ。公園の園道を歩いて噴水広場に通りがかれば、ちょうど木陰に置かれているベンチがひとつあいているのが目に留まって足が止まる。
思いのほか彼女に言われた言葉を引きずって、心が重い。きっと表情を繕いきれなくて他の孤児に心配をかけてしまうから、ちょっとだけ、休憩してから帰ろうか。そう決めてベンチに腰かける。特に目的も無いのでランドマークである噴水の方に視線をやれば、わたしのベンチとは反対側から誰かがコインを投げ入れているのが見えた。噴水の水底に願いを込めたコインが沈んでいるのは知っている――何ならホイットニーにそそのかされていくらか拝借したことすらある――けれど、投げ入れているところを見るのは初めてだった。いま投げ入れられたコインは何を希ったものなのだろう。何に祈りをささげるのだろう。願いをささげる先のイメージがうまくできない。あの大きな寺社が何を祀っているのかを、友達のシドニーが祈りをささげている先を、わたしは知らない。――知っていたとしても、わたしは神を信じられない。いるなら、わたしはきっと、こんなふうにはなっていないと思ってしまうから。
噴水の奥、晴れていればコヌダトゥスストリートの景色が見える方角は、霧でグレーに塗りつぶされている。なんともいえない、湿度の高い空気独特のにおいがする。じきに雨が降り出すかもしれないから早く孤児院に帰ったほうがいい、とは思うもののなぜだか根が生えたみたいにベンチから動けなくて、ただただじっと、ずっと噴水を見ていた。
しばらくそのままぼうっとしていたら――ぽつ、と膝に水滴が落ちる感触がした。やっぱり雨が降り出してしまったらしい。霧雨と雨の間くらいの大きさの水滴がぽつりぽつりと空から降っているのが見える。次第に、噴水に何かを祈っていた人も遊歩道を散歩していた人もどこかに移動してしまって、わたしの視界の中にはもう誰もいなくなってしまった。
雨脚が弱まる気配はない。わたしも公園から出て傘でも買ったほうがいい、と思うのに、動く気になれずにベンチに座り続けている。人が居なくなったうえに音をほとんど雨粒が吸収してしまうから、公園の中はしんと静かだ。静寂の中、茂った木の葉から落ちる雨だれの音だけが微かに耳に届く。
この音、好きかも。その音に耳をそばだてながら噴水を見ていると、不意にわたしに影が掛かった。雨雲さらに厚くなったのかな、流石にそろそろ潮時で帰ったほうがいいかな、と上を見上げると、地味な色の傘地と露先がわたしの頭上に差し出されているのが視界に入った。
――この色は、いつもホイットニーが差している傘の色だ。
慌てて後ろを振り返れば、傘をさしているホイットニーがそこにいた。あまり行儀はよくないけれどベンチを跨いで体ごとそちらを向けば(背もたれのない低いベンチだからできる蛮行だ)、雨の日にだけ見せる物憂げとも呼べる表情を浮かべたホイットニーのあいまいな視線がわたしを射る。
「……ホイットニー?」
「お前が先にいるのは珍しいな、アバズレ」
わたしと視線が合ったホイットニーが、静かな声でわらった。ともすれば聞き逃してしまいそうな、今にも消えてしまいそうな不安感すら感じる、小さな声。
「あの後、お友達と合流したんだと思ってた」
「――雨だからな」
ホイットニーがぽつりと吐き出す。雨が降る時はやっぱりひとりで居たいらしい。一日雨が降っている日は放課後一人で公園に向かっているのは知っていたけれど、途中から降りだしたときもグループから抜け出して一人で公園に来ていたのは知らなかった。――今日だけじゃなくて、いつもそうだったのかな。
ホイットニーはわたしに傘を半分かざしてくれているまま、煙草をくゆらせながら噴水を見ている。雨のせいで空気が湿っているからか、いつもより煙草の匂いが弱い気がした。
わたしに傘をかざしてくれているから、ホイットニーの左肩が少し湿っているのが見える。こうやって優しくされるとすごくうれしいのに、さっき彼女と話して言われた言葉を思い出して胃が重くなる。『飽きられるまで』。それがいつになるのか考えるのが、怖い。
「どうした、アバズレ」
「え、……何が?」
「不細工なツラしてる」
「ぶっ……し、してないよ、いつも通りの顔だよ」
「いや、さっきしゃぶってた時はもっといい顔してただろ?」
それは単にホイットニーがそういう猥雑なことをしてるわたしの顔を見るのが好きなだけでは? と減らず口が浮かんだものの、本当のところは、その後会った彼女との会話で少し気分が滅入ってしまって、それが顔に出ているだけなんだろうな、と冷静に俯瞰する。
「そ、うかな」
どう返事をすればよいのかわからなくて誤魔化すようにそう返すと、ホイットニーは探るような視線をわたしに向けた。しばらくわたしを見たあと、煙草を足元に落として傘を持っていない方の手でわたしの髪を梳いて耳に掛ける。甘い仕草に一瞬胸が熱くなったのとほぼ同時に、彼と視線が絡んだ。
「泣いてはないな」
「……泣かないよ」
意外そうなホイットニーの声に、思わず眉尻が下がる。
ホイットニーはわたしのこういう些細な感情の機微を気取って、周囲に彼の取り巻きがいなければ気を使って多少優しくしてくれるから、わたしのこと特別だと思ってくれてるのかなと誤解しそうになる。……あの子曰く、今のところはただ一人の恋人らしいから、特別ではあるのだろうか。
ホイットニーのこと、わからない。わからないから、すきだから、ホイットニーのことをもっと知りたくなってしまう。教えてなんてもらえないってわかっているのに。――泣かないって言い返したのに、思考に流されていまさら涙腺が緩みそうになっている。
見られたくない。きっと、さっきよりもさらに、ぶさいくな顔をしているから。
ホイットニーと見つめ合うかたちになっていた視線をそらすと、ホイットニーがふっと浅く息を吐くのが聞こえた。ホイットニーの指がさっき髪をかけたまま触れていた耳を揶揄うみたいにくすぐって、そのまますぐに離れていく。自分から先に視線を逸らしたのに、ホイットニーの手が離れていくのが寂しくて、指の動く先を思わず視線で追ってしまう。あ、と口から惜しむような声が出かけたのを慌てて飲み込んだ――のだけど、少し遅かったらしい。
「俺のアバズレは随分素直だな?」
ホイットニーがいかにも愉快そうにくつくつと笑っている。
「……いじわる」
「意地は悪かないだろ」
「気付かないふりしてくれてもいいと思う」
不満を込めてベンチに座ったままホイットニーのお腹にとすんと額を軽くぶつけると、やめろアバズレ、とホイットニーが笑いながら言った。……雨の日のホイットニーがこんな風に笑っていることに、少し安堵する。雨の日の彼はいつだって、そこにないものを求めるような遠い目をしているから。普段と変わらない顔を見せてくれるだけで、少しだけほっとする。
やめろと言われたのだから頭を離さないと、と思うのに、離れがたい。でも、離れたくないと口に出すこともできなくて、彼の服の裾をそうっとつまんだ。ホイットニーはわたしを素直だと言うけれど、全然そうじゃないと思う。きっと、要らない意地ばかり張っている。
ホイットニーがわたしの甘えに何も言わないのをいいことに、彼の身体に額を当てたまま目を瞑る。呼気で彼の腹が微かに上下するのを、額に感じる。雨で冷えた空気であるにもかかわらず服越しに触れるホイットニーの身体は相変わらずあたたかくて、その温かさが伝播するみたいに目の奥がじわじわ熱くなっていく。ああ、だめだ、泣きたくないのに。涙を堪えようと大きく呼吸をしたら、引きつった息の音が漏れた。でもまだあふれてない、泣いてない。
「アバズレ。顔上げろ」
わたしの息の音を聞き咎めたらしいホイットニーが呆れまじりの声で言う。彼に言われてしまえば、わたしはその言葉に従うほかない。しぶしぶ彼の身体から額を離して視線を上げれば、わたしの顔を見たホイットニーが堪えきれないといった様子で笑った。
「……なにわらってるの」
「いいや? 相変わらずよく泣くな」
「……やっぱ、いじわる」
すん、と鼻を鳴らすみたいな声が出た。……そう意識したわけではなかったけれど、拗ねたみたいな、甘えるみたいな響きだ。わたしの声を聞いたホイットニーは器用に片眉を上げて、雑な所作であやすみたいにわたしの頭に手を這わせた。そのまま、二、三度頭を柔らかく撫でられる。……心地いい。現金なわたしは、それだけで少しうれしくなってしまうので、安いなあと自分でも思う。
頭を撫でていたホイットニーの手がそのまま頭の形を辿るように後頭部に回されて、首の付け根をくすぐるみたいに指先でなぞられる。そのまま後頭部をくすぐっていたホイットニーの手が、わたしの頭皮を甘く引っ掻くようにして髪に指を絡めた。……その愛撫に体が反応して声が漏れそうになってしまう辺りは、たしかに素直と呼べなくもないかもしれないな、と考えていると同時に、指に絡めた髪をぐいと強く引っ張られる。痛い、と反射的に声が出た。
「立て」
「……うん」
返事をすれば、ホイットニーの手から髪が解放されて、後頭部に差し込まれていた手も引き抜かれた。彼は傘を差しているのとは逆の手一つで器用に煙草を咥えて火をつけている。紫煙が昇るのをぼんやりと見上げる。相変わらず急だなあ、と思うけれど、ホイットニーのわたしに対する態度の温度感が突然変わるのは割といつものことだった。オモチャ、ペット、ターゲット……ガールフレンド。彼がわたしを指す言葉はたくさんあるけれど、彼の中でどれが一番比重が多いかはわたしにはわからない。混然一体となって、また別の概念が彼の中にあるのかもしれない。
ホイットニーの指示に従って立ち上がって正面に立てば、腰に彼の腕が回って引き寄せられた。熱くてかたい腕。ホイットニーの傘の下で、彼の腕に引き込まれている。
「ねえ、ホイットニー」
「あ?」
「わたし。ここに……いて、いい?」
ホイットニーの方が見れなくて、噴水を見ながら尋ねた。
何の返事も返らず静寂が広がる。ざあざあと落ちる雨の音だけが聞こえて、湿って濡れた空気の中で彼の煙草の匂いを強く感じる。嗅ぎなれてしまった、いつものにおい。この匂いが、何時か、離れていく。返事がないことに急に不安が襲ってきた。――変なことを聞いてしまった、気がする。
「いろ。……ここに」
聞いたことを取り消そうと口を開きかけたところに、ホイットニーの答えが返ってきた。腰に回った彼の腕が強くわたしを抱き寄せてくる。
「……うん」
彼の肩にそうっと頭を凭れた。
ここにいることを、となりにいることを、許容してもらえる。――今は、それだけで、よかった。