――ああ、ようやく開いた。小さく溜息をついて、変な跡がついてしまった制服のスカートを撫でる。他の生徒に悪戯でロッカーに制服のスカートを挟まれてしまって、その子のロッカーのカギを開けるべく奮闘していたらもうこんな時間である。
授業はもうとっくに始まってしまっただろう、廊下には人気がほぼ無い。時計を見れば、授業が始まってもう10分弱すぎているようだった。うーん、今から教室行くのは正直嫌だな。5分以内だったら見逃してもらえるけど、それ以上経っているから罰を言い渡されてレイトンに監視されながら居残りをする羽目になってしまう。もういいや、それなら授業をまるごとサボってしまおう。授業自体をサボタージュしたときは罰を受けなくて済むのに、5分以上遅れて授業を受けたときは罰を受けなければならないのは、なんかこう、システムのバグな気もするけれど。
……まあ、レイトンの罰を受けたいはずもないので、抜け穴があるのは正直、ちょっと助かる。
多少の、真っ当な罰則行為で終わるのならば悪いことをしたわたしが悪いのだし受けるのも吝かではないんだけど――正直なところ、罰則の時間はレイトンが歪み切った欲望を満たすための時間といっても差し支えないと思う。自分が過去にされたことや、ミッキーに頼まれて忍び込んだときに見た画像ファイルのことを思い出すだけで、胃が重くなる。
――ほかの教諭陣は何が行われているのか本当に知らないのか、知っていて見ないふりをしているのか、詳しいところはわからない。ドーレンがわたしにしてくれたことを考えると彼は本当に知らないんだろうなって思うけど、他の人はどうなんだろう。シリス辺り、知ってて知らないふりをしていても正直わたしは驚かない。――まあ、どうでもいいか。多少倫理的にどうかと思うところはあっても、レイトンと違って直接はそういう意図を以て触れてこないから。だから、まだマシだと思うほかない。他の人を無条件で助けられるほどの余裕は、わたしにはない。
嫌なことを考えてしまったな、と小さく息を吐いて廊下を歩く。図書館や食堂は授業中でもちょっと人が完全にいないということはなくて、人目――というか教師の目が届かないから変な絡まれ方をしそうであまり行きたくないし、昼までどこで時間潰そうかな。考えながら歩いていると、ふと廊下の奥にある屋上へ続く上り階段が目についた。屋上、割と選択肢としてアリかもしれない。昼休みはホイットニーたちの恰好のたまり場だけど、授業中は教室の窓から何をしているかが見えてしまうからか基本誰もいない。昼休憩が始まる前に階下に戻らないと鉢合わせて絡まれてしまいそうだけど、少なくとも昼休みが始まる前にお暇すれば平穏無事に過ごせそうだ。
廊下を奥まで進み、そのまま屋上へ続く階段を一段ずつ昇っていく。
気を付けて歩いているつもりだけれど、思ったより靴音が響いている。他の屋内の階段と違って、塔屋に接続されているからだろうか。最上階の踊り場で立ち止まって、外の物音を伺う。何も聞こえない。屋上の外で誰かが動いているような気配もない。安堵しながらドアを開けて外に出る。音をたてないように扉を閉じて、塔屋の裏手に回り込む。ここは階下の教室の窓から見えない唯一の死角だけど、この時間帯は太陽の向き的に日当たりがあまり良くないみたいだ。なるほど、だからサボってる人いないのかも。
床をささっと払って背負っていたバックパックを下ろした。腰を下ろして、背中を塔屋の壁に預ける。ホイットニー達が昼休みにたむろしてるあたりは割と見晴らしがいいけれど、こっち側は見晴らしもあまり良くないので、屋上固有の暇つぶしも特にできそうもない。どこで過ごしても結局やることは変わらないんだよなあ。
カバンから図書室から借りているペーパーバックを取り出して開く。今サボってる英語の授業中にドーレンが参考図書として挙げていた本だから、まあ、今の時間帯に読むならちょうどいい気する。美しい男と、その肖像画の話。その眉目秀麗な男は年を重ねても老いないけれど、彼を描いた肖像画は醜く老いていく……んだったかな。あらすじだけは聞き及んだことがあるけど、実物を読むのはそういえば初めてだ、オチを知らない。中表紙をめくって、序文からぼんやりと読み進める。
センテンスに視線を滑らせて、ぱらり、とページをめくる。
――ふ、と。背中を預けている塔屋の中から、足音がすることに、気付いた。え、嘘、もう昼休みになっちゃった!? 全然まだ読み始めたばかりの認識だったんだけど、そんな没頭してたかな。慌ててブックマークを今のページに挟んで本を閉じ、バックパックに手を伸ばして掴む。
ホイットニーとお友達に多少絡まれるのは覚悟しないといけないな、いやまあ時間を忘れたわたしが悪いです甘んじて受け入れます――と考えてから、違和感を覚えて思考が止まる。……足音が随分少ない。重い足取りが、一人分? 彼らがこの時間帯どういうメンバー割で授業取ってるかわかんないや、一人だけ別の取ってて早く終わってきた感じだったりするのかな。考えていると、塔屋のドアが開く音がする。毎日開閉されるからメンテナンスは行き届いていて、軋むこともない。遮るものが無くなって明瞭に聞こえる足音は、やっぱり一人分に聞こえる。
その足音がこちら――授業中の教室から見えない唯一の死角に向かってくるのが耳に届いて、はっと気づく。そうだここから退散しないと。本をバックパックにしまい込む。逆……にいけば、見つからずに出ていけたりしないかな。考えながら腰を上げて、立ち上がろうとして――
「――あ? アバズレ?」
姿を見せたのはホイットニーだった。前髪で隠れていない方の目が細く眇められたのが見えて、わたしは慌てて言い訳を並べる。
「時間忘れてたの、ごめん。お昼までここおじゃまするつもりなくて……えと、今出てくから、」
「なってない」
「え?」
「まだ三限だ、つーか30分も経ってない。……いい、まだ居ろ」
言い訳を並べながらあまりいじめられる前に退散しようとしていたわたしの言葉を、ホイットニーが遮る。……「居ろ」と言われたその言葉にしたがって、上げかけた腰を再び下ろして正座を崩した形で座り込む。掴んだバックパックを再び床に下ろすのとほぼ同時に、ホイットニーがわたしの横にどっかりと腰を下ろした。彼は立てた膝に腕を乗せて、長く息を吐いている。疲れてる? 塔屋の中から響いた足音から一人であることは薄々わかっていたけれど、本当に友達は引き連れていないらしい。
――めずらしいな、と思う。彼が学校で一人でいるのも、わたしと学校で遭遇しているのにらんぼうしてこないのも。いや、らんぼうをされたいわけではないのだけど……調子は狂う。どうしたんだろう、とそっと様子をうかがう。ホイットニーはわたしの視線を意識していないのか、床の一点を据わった目で見ている。目が微かに充血しているし、顔色もあんまりよくない。
「……体調、悪い? 保健室行く?」
「行かない。黙ってそこにいろ」
にべもない言葉に口を噤む。なるほどだから一人なんだな、と口には出さずに納得する。『お友達』に体調が悪いことを気取られたくないのだろう。彼のお友達を引き連れてその先頭を颯爽と歩いてい周囲の生徒を威圧する姿は、彼自身がそういうロールをするのが好きというのもあるのかもしれないけれど、どちらかというと自身のパワーを周囲に誇示する目的の方が大きいのだろうとわたしは見ている。自身の力に着いてきている友達――手下や仲間といったほうが妥当かもしれないが――に、弱った姿を見せたいはずもない。ホイットニーは割と、周囲に自分をどう見せるのかを強く意識して動いている。セルフブランディング、というのだろうか。わたしにはこういう弱った姿を見せてもいいって思ってくれてるのかなぁ。それとも、ただ取るに足らない雑魚だと思われてるだけ? ……たぶん、後者だろうな。自分で考えてちょっと悲しくなってきた。
ちらりとホイットニーの方を再び窺う。彼は屋上の床に座り込んだまま、塔屋の壁に背を凭れている。屋上にいるのに、珍しくタバコを吸おうともしていない。相当具合がよくないらしい。わたしは膝の上のスカートのプリーツを撫でつけながら、ホイットニーに声を掛ける。
「……ホイットニー」
「黙ってろっつったろが」
「あの、わたしの膝、使う……? 横になるだけでもちょっとは楽になると思うし……寝ちゃっても、昼休み始まる前に起こすよ」
下校することを選ばずに人目のつかないところに居ることを選んだということは、たぶん昼休みが始まればホイットニーは友達と合流するのだろう。彼らはいつも昼休みは屋上の一番見晴らしがいいところを陣取って、フェンス越しに前庭を見下ろしては話したりなんだりしている。きっと今日も、ホイットニーはいつもと変わらないような顔で、いつもと同じことをする。体調が悪いのを友達たちには全力で隠しながら。
だから昼休みが始まるまでは休んだらどうかと思っての提案だったのだけど、ホイットニーに半眼で睨めつけられた。……いつもより一層目付きが凶悪だ。でも、あんまり怖くない。傷ついた野生動物の威嚇みたいだな、とぼんやり思うけど、こんなこと考えているのがバレたら絶対折檻される気がする。なので、表面上はいつも通りの顔を繕うように意識して、自分の腿をぽすぽすと叩いて示す。
「ね、どうかな」
首を傾げてホイットニーの顔を覗き込めば、彼の青い瞳にひたと見据えられた。しばし言葉なく、お互いを見つめ合う。先に根負けしたのは、珍しくホイットニーだった。
「お人よしだなアバズレは」
その言葉と同時に、ぽすん、と微かな勢いをつけて膝にホイットニーの頭が乗せられた。自分で言いだしたことだけど、素直にわたしの言う通りにしているホイットニーに不思議な気持ちになる。わたしの言うことをきくなんて、やっぱり相当しんどいんだろうな。ちょっとでも楽になるといいんだけど。
ホイットニーはわたしの膝の上で身体の角度をもぞもぞと変えて、据わりの良い位置を探している。足崩したほうがいい? と問うと、ひらひらと手を振って断られた。声上げるのも結構つらいかんじ?
彼は最終的にわたしの膝の上にちょうどいいポジションを定めたらしい。わたしの膝の上、彼がからだの力を抜いて弛緩させて頭を預けている。見下ろせば、仰向けのホイットニーと視線が合った。この角度からホイットニーを見るの、新鮮。
「横になると存外来るな」
ため息交じりにホイットニーが呻いた。いつもほどの声の張りもない。
「……やっぱ保健室行っておく?」
「行かないって言っただろ、二度も言わせんな」
「薬飲んだ方がいいかなって思っただけ、手間かけてごめんね」
わたしの膝の上、ホイットニーの前髪をそうっと払って、額を包むように右手で触れる。とはいえ日ごろの彼の額の温度感を知らないから、少なくとも高熱ではないことしかわからない。比較対象が無いと何とも言えないので、逆の手で自身の額にも触れてみる。ちょっとあつい、かな。微熱くらい?
この学校の保険医は鎮痛剤も相当の痛みじゃないと出してくれない(行ったはいいけど薬をもらえなくすごすご引き下がったことがある)から、微熱程度の症状では確かに薬もベッドも使わせてくれない可能性が高い。そうなると確かに、ホイットニーが言う通り保健室に行く必要はない。むしろ無駄足になってしまう。
額から手を離して、左手を伸ばして傍らに置いていたバックパックを引き寄せる。中に確か、最近肌寒くなってきたからとブランケットを入れていたはず。
「アバズレ」
「うん? なあに?」
「もっと触れ。お前の手、冷たくてきもちー……」
膝掛けを取り出そうとしていたわたしを、ホイットニーの低い声が止めた。平素よりだいぶまろい口調で、ホイットニーが乞うてくる。横になったことで今までこらえていた分のしんどさが一気に体に来たんだろうな、と思うけれど、甘えられてるみたいでちょっと嬉しい。……不謹慎かな、ごめん。
言われた通り、ホイットニーの首筋に右の手のひらを緩くあてがう。平素より早い心拍の鼓動が指先に響く。ちょっと、あつい。そのまま手を滑らせて、人差指の腹で耳の付け根の髪をなでる。逆の手もかばんから放して、ホイットニーの頭頂部から額の辺りをてのひらで優しく愛撫する。ホイットニーが何か言いたげな目でわたしを見上げたけれど、それを黙殺してそのまま彼のあたまのいたるところに緩く触れて優しくなぞっていく。ゆっくり労るように、つらいのが和らぎますようにと願いながら。
しばらく彼の頭をやわらかく撫でつづけていくうちにホイットニーの呼吸が深く静かになっていって、最終的に彼の瞳がゆっくりと閉じてくのを見守る。……寝た、かな。窺いながらホイットニーの金の髪をやわらかく梳く。身じろぎもしない。深く寝入ったらしい。最後にもう一度だけ髪を梳いて、彼に触れていた手を離した。
こんなすぐに寝ついてしまうなんて、見た感じでわたしが想定していたより、相当調子が優れなかったのだろう。……隠すの、うまいなあ。考えながら、バックパックから出したブランケットをホイットニーに掛ける。全身は覆えていないけれど、胴は暖められるからどうか許してほしい。
ホイットニーのしずかに眠っている顔をじっと見つめる。さっき熱を測った時に軽く払ったから、いつもは前髪で隠れている側も含めて、顔がよく見える。……きれいなかお。いつもは嘲笑うような表情をしていたり、人を小ばかにするような笑みを向けられるから彼の容貌そのものの良しあしに意識が回すことってあんまり無いけれど、こうやって目鼻立ちだけを見れば端正な顔立ちをしている。どうもホイットニーは彼自身の見てくれをあまり好んでいなくて、なんらかの不安を抱えているようだから、彼本人に言ったことはないけれど。
小さく息を吐いて、熱を測るために崩してしまったホイットニーの前髪を整える。この片目を隠す前髪も、人目を疎んだりとか、そういう意図があるのかもしれない。
――その不安の理由も、わたしは知らない。まあ、わたしがそれに気付いているということを彼は知らないだろうから、当たり前と言えば当たり前だけど。あの時のホイットニーも表面上はうまくつくろって隠していたな、と回顧する。彼の友人たちに囲まれてホイットニーから振るわれていた性暴力のさなかで顔が近かったから、わたしの口撃で『呼気が早くなっている』とあの時わたしは気づけたけど、ふつうの距離感だったならきっと気付かなかっただろうなと思う。
……あの時は本当に限界でどうしても嫌で結構言葉を選ばないで抵抗したから、きっと傷つけちゃったろうな。先に手を出してきたのはホイットニー達だから謝る気はあんまり無いけど、彼を傷つけたかったわけではないから多少の後悔がある。だから、この口撃は二度目はないと決めている。ホイットニーにわたしの小さな決意は気付かれていないだろうし、平素の学校での彼は何も変わらずわたしをいじめるだろうけど、別にそれで構わない。
というか、わたしがそういうの気にしてるって彼が知った方が、きっともっと手酷くされる。……わたしはホイットニーと対等の関係でいたいけれど、ホイットニーにとってのわたしはガールフレンドではあるけれど、ペットだったりターゲットだったり対等でないものとして扱われる場合のほうが多い。だからきっと、わたしのこの考えが筒抜ければ「生意気が過ぎる」と叱られが発生するだろう、容易く想像がつく。
……美醜に触れないとしても、ホイットニーの寝顔をまじまじと見る機会なんてそうそうないので、意味もなく見つめてしまう。全然あきない、不思議。微かに寄っているホイットニーの眉間の皺を指先でそっと撫でれば、彼の表情が穏やかそうな寝顔にゆっくりと緩んでいく。見下ろすホイットニーの胸板は、呼吸でゆっくり上下している。息は緩やかで、少なくとも苦しそうにも魘されたりもしていないので内心で安堵する。ちょっとしか寝られないけど、それで少しは体調落ちつくといいんだけどな。彼に掛けたブランケット越しにとん、とん、と彼の呼吸に合わせて身体をやわく叩くみたいに撫でる。こうするとリラックスして、よく眠れるらしい。――わたしはこういうことをしてもらったことはないので、伝聞なんだけど。……ほんとなのかな。ほんとだといいけど。
ホイットニーに性的なものを一切伴わない愛撫をわたしからするのは本当にレアケースだな、とぼんやり考える。彼からは気まぐれに触れられることはまあたまにはあるけど、わたしから彼に触ることは早々ない。セックス中ならまだしも、全然関係ない時に彼から許可も出ていない状態でわたしから触れたら何がどう逆鱗に触れるかわからないから、正直言うとできるだけ避けたいし。――穏やかな顔で眠るこの顔だけ見ると、そういうことは全然しなさそうにも見えるけど。ふふ、変なの。
そうして、しばらく彼を見つめていたら、覗き込んでいたホイットニーの瞼にぎゅっと力が込められたのに気づいた。起きちゃったかな。彼を撫でていた手を止めて見つめていれば、存外長い彼の金のまつげに縁どられたまぶたがゆっくりと開かれた。……蝶の羽化って、見たことないけど、こんな感じかも。
ちらりと時計を確認すれば、あと15分ほどで昼休憩が始まるといったところだった。
「起きた? おはよう」
彼の顔を覗き込んで囁くように声を掛ければ、ぼんやりとしていた彼の焦点が合って、ようやくわたしと目が逢った。ぱちぱち、と彼の目が数度瞬く。こんな無防備なホイットニーの顔見るの、初めて。
「ぁ? ……アバズレ? なんでここに……」
「ホイットニー、寝ぼけてる? 時間的にもう少しなら横になってても大丈夫だと思うけど……どうする? まだ寝てる?」
相変わらず冷静に考えるととんでもない呼称でわたしを呼んでいるが、その口調はだいぶ棘が無い。掠れて喉に引っかけるみたいに響くいつも通りのホイットニーの声なのに、喋り方の柄の悪さが出てないだけでだいぶ印象が異なって聞こえる気がする。いや、わたしの呼び名に柄の悪さが如実に出てるからわたしの錯覚かもしれないけど。
ホイットニーの腕が虚空に伸ばされて、人差指を軽く動かしてわたしを呼び寄せるジェスチャーをする。首を下げろ、という指示だと理解して、背中を丸めて顔を下げた。わたしの髪がホイットニーの顔に当たりそうなので慌てて掻きあげて耳にかける。それとほぼ同時に、ホイットニーの大きな手がわたしの首の裏に回されて、そのままぐいと強く首を下に引かれた。これ以上背中曲げるのきついんだけどなあ、と思いながらも、素直に顔を更に下げる。どうしたの、と尋ねようと開いた下唇を、上半身を微かに乗り出したホイットニーに文字通り噛みつかれた。痛みで身を引きそうになったのを、わたしの首の後ろを掴む彼の手が遮る。噛まれた下唇がそのまま彼の唇にゆるく食まれて、ちゅ、と音を立てて甘く吸われた。
口のあわいに彼の舌が緩く這わされたので反射的に迎え入れるように唇を開けば、まだわたしの咥内にあった舌を外に導き出すみたいに舐られる。
「ぅ、ン……ふ、」
わたしの首に触れるホイットニーの指が揶揄うみたいに項を辿り、鼻から息が抜けるみたいな声が漏れた。快楽に従順なわたしの身体はホイットニーから与えられるものに応えて、無意識のうちに動いてしまう。ホイットニーにそそのかされるまま緩く舌を伸ばして、舌先でくすぐるみたいに彼の舌とわたしのそれを触れ合わせて刺激する。ホイットニーの大きな舌が、わたしの舌の裏を絡めるように嘗め上げてくる。それが、まるでもっと寄越せと言われてるみたいで背筋が震えた。それに応えたくて、ホイットニーの舌に積極的に舌を絡めてキスをする。じゅ、ちゅ、彼の舌とわたしの舌が絡む間ひっきりなしに響く濡れた音に耳が犯されていく。キスの合間、ホイットニーの低い吐息が耳をくすぐる。わたしの息継ぎの呼気が、どんどん荒くなっていく。わたしの跳ねた声も甘い息もぜんぶぜんぶホイットニーのくちびるの中に吸われて、息が苦しいのにきもちよくて、頭がくらくらする。
絡めた舌がホイットニーの唇にゆるく食まれて、ちゅぱ、と粘着質な音を立てて吸い上げられた。吸われた舌に甘く歯が立てられる。痛みはない。ただわたしを煽るだけの刺激に、背骨が蕩けそうな快感が走る。
ちょうど彼の犬歯に緩く甘噛みされた部分をくすぐるみたいに唇でなぞってから、ホイットニーの唇が離れていく。
「あ゛ー、起きるわ」
呻きながらホイットニーが身体を起こす。さっきまであんな深いキスをくりかえして、わたしはすっかり息が上がっているのに、彼は平然とした顔をしている。わたしが荒れた呼吸のままホイットニーを見つめれば、彼は唇を釣り上げてにやりと笑う。まるでいつも通りみたいな態度をするけど、微妙なけだるさが残っているのは流石に隠しきれていない。
キスだけでわたしのお腹の奥が熱く切なくなってしまっているのを、深呼吸を数回繰り返してむりやり飲み込む。欲しい、と続きをねだれる状況じゃない。ホイットニーは具合が悪いんだから、と自分に言い聞かせる。……キスを仕掛けてきたのもホイットニーだけど。
「ねえ。……体調どう? だいじょうぶ?」
「ま、だいぶマシになったな」
ホイットニーの声も喋り方もだいぶ平素のものに近い。顔色も、確かにさっきよりはだいぶいい。けど。……興奮して血色よくなっただけでは、という気もしなくもない。
わたしの隣に腰を下ろしたままのホイットニーの前髪をそうっと払って、額に手を当てる。
「……、ンだよ」
「上がってはいないかな。よかった」
「うっせ。……余計な世話」
ホイットニーが鋭い低声で切り捨てるように言う。取るに足らないわたし相手とはいえ弱った姿を見せたのが不本意なんだろう。威嚇されてるみたいでいつもならちょっと怖いと感じる気もするんだけど、威嚇できるだけの気力は回復したってことなんだろうなと思うと、恐怖よりも安堵の方が先に浮かぶ。
「てか何だコレ」
ホイットニーが彼の腹から腿に掛けて掛けられたわたしのブランケットの端を掴んで言う。その様子を見て、ホイットニーが寝付いてから掛けたことを思い出す。ホイットニーにしてみれば正体不明のブランケットだ、不審そうな目つきもするだろう。
「わたしが掛けたの。温めた方がいいかなって。必要なら置いてくけど……まだ使う?」
尋ねると、ホイットニーは眉間にしわを寄せた。ホイットニーの手がわたしの方に伸ばされて、鼻を摘ままれる。……なんで急に?
「お前はマジでお人よしだな、アバズレ。ここまで来たらカモだろ」
「……カモじゃないよ。わたしは、相手をちゃんと選んでる」
ホイットニーの半目に射られたが、わたしはそれを真正面から受け止めた。
わたし、誰にでもこういう風にするって思われてるのかな。……そうだとしたら、心外すぎる。わたしはホイットニーが体調悪そうにしてたから心配したし、ホイットニーだから膝を貸したのに。
しばしホイットニーと見つめ合う。……見つめ合うというより、睨み合いと呼称した方が、厳密には正しいけれど。こういうのなんて言うんだっけ、メンチ切る? ――とりとめのないことを考えながらもホイットニーとにらみ合っていたけれど、ホイットニーがぞんざいに視線を切って唐突に終わってしまった。……膝を貸した時も先に根負けしてたし、やっぱり本調子じゃないんだろうな。
ワンテンポ遅れて、抓まれた鼻も解放される。
「……あ、そ。……もう行けよ」
ホイットニーの手がわたしを追い払うようにひらひらと振られた。その態度に違和感をおぼえてそれを尋ねようと口を開きかけて――口を噤んだ。たしかに、あと少しで昼休憩が始まってしまう。きっと、ホイットニーのお友達が屋上に来たら、きっといつも通りの学校の人気者のホイットニーとして彼はふるまう。――学校のホイットニーの横にわたしがいることは、許されない。
立ち上がって、バックパックを背負う。
「うん、わかった。……またね」
「はいはい。じゃあな」
ホイットニーの雑な言葉を背に、屋上を後にした。階段を下りれば、ちょうど授業が終わったところらしく、廊下が俄かに騒がしくなり始めたところのようだった。屋上にいたのだと気取られないように、人波に紛れる。
視界の端で、ホイットニーの「お友達」が屋上に向かう階段の方へ向かうのを捉えた。今日だけは、誰も屋上に行かなければいいのに。ありえないことを考えながら、廊下を食堂にむかって歩く。
――やっぱり、学校でも隣にいることを、許されたいなあ。
小さく息を吐いて、わたしはわたしの小さな悲鳴を見殺しにする。そっと目を瞑る。何度考えたかもうわからない願望を胸の奥深くに沈めて、わたしはまた自分の感情をひとつ、見ないふりをした。