歪んだ視界の端に、罅割れ。
段々とそれは大きくなって、取り返しがつかなくなる。
軋み、そのまま砕け散る。

カシャン、音を立てて床に落ちる。










  008.折れた十字架










目の前に立つ恐怖。
のとに対し私は大いなる恐怖だけを抱いているような気がした。
ぞくり、背を冷や汗が伝う。
咽喉が変に突っ張って上手く声が出なくて、私はただ見上げるだけしか出来なかった。


「そんなに怯えないでよ。何も危害は与えないから」


一歩、のとが私に歩み寄る。
それに従い、私は後退りした。
のとの表情が如何にも不機嫌そうに歪められて、私の背にまた冷や汗が伝った。


「全く何を怯えることがあるんだか」


また一歩のとが近付く。
私の後ろは壁に阻まれてこれ以上後ろに下がることは出来なかった。
腰が抜けて、重力に逆らわずにそのまま床に座り込んでしまった。
のとはもう一歩私に近寄る。……もう、逃げ道は残されてはいなかった。


「…


のとの指が、私の顎を捕え正面を向かせた。
それに従い前を向くのは何かが嫌で仕方がなくて、私は視線だけを横に逸らした。
はあ、とのとが溜息を吐いたのが耳に届いた。
私の肩が、怯えて震えた。


「僕が怖い?」


私の顔が見やすいようにか、軽く屈んでのとが私に問うた。
その声色は何かを楽しんでいて、私は怯えるような目でのとを睨みつけた。
その目を見た瞬間、のとはふうんと感心したように息を吐いた。
口許には楽しそうな笑みを浮かべたままに。
ぞく、と言い知れない恐怖を感じた。怖い。堪らなく怖いとただ感じた。


「怖がらなくていいのに。中途半端に知ると怖がるなんて、人ってば面倒な生き物だね」


のとの指先が首を撫で、鎖骨を辿った。
私の口からは声になりきれなかった息が毀れて、それが空気に溶け込んだ。
もう後ろには下がれないのに、思わず後退った。
カシャン、音をたててポケットからクロスが落ちた。


「あ、」
?」


震える手で、その落とした十字架を拾い上げる。
ぎゅ、と強く目を瞑ってそれを視線の高さまで上げた。
吸血鬼は十字架を嫌うという。これでのとが少しでも離れてくれれば、或いは…


「――笑止。子供騙しもいいとこ」


目の前の十字架が、折れた。
床に折れた十字架が落ちる。カラン、と。
のとの冷えた目が私を射抜いた。真っ直ぐに、強く。
手から力が抜けて、持っていた十字架すら床に落ちた。


「吸血鬼全部が十字架が苦手なんて思ってた?甘いね。僕の場合は触ったら一寸火傷っぽくなるだけだから」


残念だったね、とのとは付け足した。
持ち上げていた腕が力無くだらり垂れるのを冷静な私が感じ取った。
その手をのとが楽しげに笑って持ち上げ、そのてのひらに口付けた。
戯れに、楽しげに音をたてて。


の全ては僕のもの。髪の先から血、心だって、全部」


その言葉を脳が処理するのと同時に、首にちくり痛み交じりの何かの感覚が脳髄を揺らした。
ぞくり。何かが背中を駆け上がる。
どろり。のとの唇が触れる首筋から流れる紅。


視界の端で、無残に折れた十字架が静かに佇んでいた。





2005/05/15
のと様吸血鬼。実はしばらく温めていたネタでした。
キタユメのキャラ紹介バルヨナ版ののと様の目の色が赤だったもので、見た瞬間
「目赤いよ!吸血鬼だよ!」と心の中でフィーバーを起こし騒ぎまくっていました。
…やっと形になりました。やっと。
ブラック設定にしようかとも思ったんですがやめました。
関係無いんですけど、吸血鬼なのと様だったら女泣かせののとでも違和感無いですよね。

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