新月は闇に埋没する
沈んだ月を浮かばせることはできるのか


 戦場の真中――本陣の手前で、政宗は馬から下りた。今か今かと待ち望んだ雪辱を果たす時が来たのだ。逸りつつある心を鎮めながら、政宗は本陣へと歩みを進める。自身の右目である小十郎は連れていない。政宗が雪辱を晴らす邪魔にならぬよう、両軍の兵を抑えるよう指示を出したからだった。
 政宗は東軍にも西軍にも与さなかった。天下取りよりも何よりも先に、三成を斃すことだけを優先したのだ。
 今政宗が向かっているのは東軍の本陣だ。西軍の本陣に奇襲でも仕掛けるか――などと考えていたのだが、斥候の「西軍大将が先陣を切っている模様」という報告を受け、それを追ってここまで来たのである。
 まさかもう殺られちまったとはいわねえよな。政宗は微か胸に去来する不安を振りほどくように、政宗は自身の刀の鯉口を切った。聞きなれた音が響く。心が静まる音だった。
 本陣から、ふらりと誰かが出てくるのが見えた。政宗は半ば反射で刀を抜き、構える。草履が地面と擦れる音がする。遠くぼやけたその人影が、徐々に象を形作る。政宗を取り巻く雰囲気が、一気に殺意に満ちた。
 東軍本陣から出てきたのは、まぎれもなく、西軍総大将の石田三成その人であった。
 こいつが出てきたということは、西軍が勝利したということか。その割には勝ち鬨も上がっていないが――と算段しながら、政宗は構えた刀の切先を三成に向ける。

「……構えろ、石田三成」

 政宗は低く吼える。しかし三成はふらりふらりと揺れるだけで、政宗の言葉に反応を示すことはない。
 三成の目からは黒い涙が流れ落ちている。文字通り血の涙を流している空虚な目は、政宗の姿を見ようともしない。その目には何も映っていないかのようだった。

「構えろっつってんだ、石田ァ!」

 そう怒鳴ってから、三成の左手には刀も何も握られていないことに政宗は気付いた。どういうことだ、と政宗は目を剣呑に細める。
 ふらり、三成は覚束ない足取りで一歩歩き出す。

「ひでよしさま、はんべえさま」

 ひどくたどたどしい口振りで、三成は言う。きょろきょろと辺りを見回すその仕草は、まるで戦場で見るものとは思えない、稚児のそれのようだった。
 政宗は剣呑に細めた左目で三成を見た。三成は政宗のことなど気にした様子もない。そもそも、政宗がいるということを認識しているのかさえ、危うい。

「ぎょうぶ? どこだ、ぎょうぶ」

 三成はふらふらりと歩く。刀を構える政宗の横を、まるでそれを置物と看做しているかのように、何の衒いも躊躇いもなく通り過ぎていく。
 刀を構えていた政宗の腕が、ぴくりと揺れる。

「おい、石田。テメェまさか――」
「いえやすもいないのだ、ぎょうぶ。きさまはどこにいる」

 政宗はぎょっとして、自身が倒すべき相手を前にしているのだということも忘れて目を丸くした。常の戦であれば見せぬような隙だったが、今政宗の前にいるのは、政宗が見たことのない姿の三成だけだった。
 政宗の知っている三成は、容赦も情けも持たない、一振りの刀のような男だった。
 まともに顔を合わせたのは小田原での一戦だけであったが、あの時の三成の太刀筋は、今でも政宗は鮮烈に思い出せる。幾度三成の刀捌きを思い描いて巻き藁を斬ったか、政宗はもう思い出せない。

「刀を構えろ。俺を――敵を見ろ! そんなテメエを斬ったところで俺の気は晴れねぇ!」

 政宗の怒号が響く。しかし三成は消え入りそうな声で「ぎょうぶ、」と囁くだけだった。今政宗の前にいる三成は、小田原で見た時のような苛烈な雰囲気を一切纏っていない。政宗が倒さんとしていた三成の姿では、なかった。
 政宗は苛立たしげに舌打ちをし、自身の刀を鞘に納めた。そして、三成の陣羽織の襟を乱暴に掴むと、ぐいと引き寄せ、地面に引き倒した。三成が僅かに咽るが、政宗はそれには頓着せず三成に馬乗りになった。

「はんべえさまはやまいでなくなってしまわれた」

 まるで幼児のような声色で、三成は言う。政宗は顔を歪めたまま、陣羽織の襟を掴む力を強くした。ぐしゃり、皺がよる。

「Shut up」
「はんべえさまをなくしてから、ひでよしさまはときおりかなしいかおをなさる」
「……黙れ」
「いえやすはときおりとおいめをしている、ぎょうぶはまえよりわたしにやさしくなった」
「黙れ、石田!!」

 政宗が、三成に噛み付くような距離で叫ぶように言った。
 しかし三成はその音量にも気にした様子はなく、まるでこどものような声色で、まるで毒のように言葉を紡ぐ。

「そんなゆめをみたのだ。ひどいゆめだった」

 政宗は息を飲んだ。三成が背を預ける地面に、じわじわと闇のような何かが滲むように広がっているのに気付いたのだ。
 三成の唇がゆるくひらく。闇が、濃く、大きくなる。

「ぎょうぶ、はんべえさまとひでよしさまはどこにいらっしゃるのだ」

 声色は幼げに、しかしそれとは裏腹、濃艶さすら感じさせる表情で、三成は虚空に尋ねた。
 ――三成の目が政宗を見ることは、終ぞ無かった。



write:2010/10/25
up:2010/10/26
基本は三成赤ルート。作中でも書いたけど、政宗様は単独勢力です。
政宗様視点に立つと「関ヶ原・乱入」をしようとしてた感じ。まあ、三成が蹴りつけちゃったわけだけど……。
お市様化した三成が書きたくて書いたんだけど、終わってみたら退行・混濁辺りのが妥当な悪寒。