澄んだ水面にうつるもの
われはぬしの余剰なのか
三成は、余剰を極限まで削げ落とした人間であった。 食事も刀を振るうために必要な量しか――むしろそれにも満たないこともあるのだが――摂らないし、睡眠も必要最小限。趣味らしい趣味もなければ、娯楽に興じることもない。 体は無駄な肉もなく、ほっそりとしている。筋肉も無いとは言わないが、武人としての最低限しかついていない。体力も然程あるほうではなく、大谷としては、前線に出ないよう言い含めたいと思うているほどであった。 とはいっても、三成はよほどのことがない限り、自ら前線に出て、敵兵共の首を自らの刀で狩るのだろう。その刃が家康の首に届くまで、家康への怨嗟を石積みながら。 「三成」 大谷に呼ばれ、三成は振り返った。三成と目を合わせ、大谷はわずかに眉間に皺を寄せる。元より色白ではあったが、今の三成の顔色は白を通り越して蒼白であった。 「何の用だ、刑部」 しずかに三成が大谷に歩み寄る。大谷はその言葉に返事をせず、腕を持ち上げ三成の頬をに触れた。指の背で首筋から頬までの線をゆっくりなぞれば、三成の目が驚いたのか微か見開かれた。 「寝よ三成。そのまま戦に出れば満足に動けぬであろ」 しかしその言葉に、三成は表情を歪めた。 「私に寝ている暇などない。早く家康の首を秀吉様に捧げるのだ」 今の三成を占めるのは、家康への憎悪、ただそれだけだった。それ以外の感情はほとんどない。三成の感情のみなもとはすべて豊臣にあって、そしてその最後の砦とも言えた豊臣秀吉は、家康に倒されてしまったのだから。 ――家康への憎悪以外の感情は余剰なものだと、三成は思っているのだろうか。 大谷にそれはわからない。 知るのが少し怖かった。 大谷は三成が豊臣の子飼となってからそれなりに長い間を過ごしてきた。三成は昔から、愚直と言えるほどにまっすぐで、感情すべて表に出す子供であった。頭は悪くはなかったが、決して器用とは言えない生き方は、今と全く変わらない。 三成の感情は、三成当人が自覚していようがいまいが、まるで水面のようにわかりやすいものだった。怒れば荒れ、泣けば静かにさざめき、喜べば乱反射するように輝いた。――今となってはもう、逆巻き荒れ狂う水面しか見ることはできないが。 その水面の下で、三成は憎しみ以外の感情を抱いているのか。憎しみが目立つだけで他の感情をも抱いているのか。それは、大谷には、知り得ぬことであった。 「休まぬと最終的に遠回りになるやも知れぬぞ」 「そうなる前に家康を殺せば良いだけの話だ」 効率の問題を説こうが、三成は首を縦には振らない。薄暗い廊下でも、三成の瞳に浮かぶ憎しみの青い炎がぎらぎらと輝くのが見て取れた。 過去に一度だけ、大谷は三成の腹の底に何があるのか引きずり出そうと、世間話を装った問答をしかけたことがあった。出会ってそう間もない、元服すらしていない頃のである。普通の人ならば心が揺さぶられるような大谷の巧みな言葉も、三成には全く通用しない。終いには「世間話をしている暇があるなら秀吉様の為に時間を費やせ」と話を打ち切られてしまったくらいである。大谷はそこで初めて、探られて困る腹を持たぬ人間の存在を知ったのだった。 今でも大谷はその時を思い出すことがある。 それはいつでも決まって、三成の視線が自分に向いていない時、とりわけ、家康に向いている時だと言うことを、大谷は厭なほどに自覚していた。――あの男はわれの見たくもないものを照らし出す。家康への腐泥じみた嫌悪が、どろりと大谷の腹の底に溜まっていく。それは、ずっと昔から今まで時間をかけて堆積した土砂のようだった。 「常に事が良く進むとは限らぬぞ。悪いことは言わぬゆえ休みやれ」 「……刑部。貴様はそんなに私を休ませたいのか」 渋面で三成は言う。 「そうとも。出来ることなら飯も摂らせたいが……それは今日は譲ってやろ」 大谷がそう返すと、暫く渋面のままでいた三成は、仕方がないと言うように息を吐いた。 「わかった、少し休む」 「よく言うた三成。善は急げ、早よう寝やれ」 そう返し、大谷は三成を彼の自室に行くように促した。歩き出す三成の背を、大谷は数歩遅れで追う。 少しだけ悪い姿勢で歩く三成の背はやはり細い。この縦にばかり伸びた身体に、三成は家康への憎悪ばかりを湛えて立っているのだろうか。その中に僅かでもわれはいるのだろうか。 ――家康は私の全てを奪った。 三成はそう言うたが、では今でも猶三成の隣にいるわれは一体何だと言うのだろうか。 大谷の声にも出されぬ疑問には、誰も彼も、問いの対象である三成すら気付かない。答えも得られぬまま、それは大谷の心の中で、ずぶりと埋没していくのだった。 write&up:2010/10/24
自分は三成にとって「全て」ではないのかと考え、家康に嫉妬する大谷さんの話。 私の中の大谷さんは、闇の中で光を眩しがってうらやんでいるいるイメージがついています。 で、その光に目が晦まされて、ほしいものが身近にあることに気付けなくなっちゃう感じ。まさにコレみたいな。 三成にとって大谷さんがどういう存在なのかなんて、三成の行動を見れば一目瞭然なのに(裏表ないから)、 考えすぎてだんだんわかんなくなっちゃう大谷さん美味しいです。 |