悪食の果てに満つ
蝶も食らえ、と蝶が嘯く


「紀之介」

 低い声が、大谷の名を呼ぶ。官位を授かった今となっては呼ばれることのなくなった古い名は、大谷に望郷にも似た感情を抱かせる。しかしこの名を三成に呼ばれるのも随分久しいものよ――思いつつ大谷はゆるりと振り返った。
 そのまま大谷は、本陣を落とし――東軍の総大将を討った三成を労おうと口を開きかけたが、結局、何の音も紡がなかった。三成の左手にあの時から片時も手離されることのなかった刀が握られていないことに気付いたのだ。

「三成。ヤレ、どうした」

 大谷は三成にそっと手を伸ばした。一体これまで何人斬ったのか、臑当から胴まで血飛沫が飛んでいる。単独で陣に飛び込み片っ端から己に向かってくる兵士を斬り倒していく三成の戦い方では仕方のないことではあるのだが。
 三成の両頬に流れる赤い血筋を親指で軽く拭いながら、大谷は三成の目を見つめた。昏い色をした三成の瞳は、深い沼のようにも深淵にあいた孔のようにも見えた。
 三成の唇が緩く開かれる。ひどく緩慢な動作だった。

「紀之介」

 大谷の名を呼ぶ三成の声はまるで幼い日のそれのように棘がなく、それでいて、その頃にはなかった艷めいた響きをたたえていた。

「私は充たされた」

 三成は胴越しに己の薄い腹をなぞった。
 細い指が胴をゆるく辿っていく動きに誘われるように、大谷は自身でも三成の腹に触れた。冷たく無骨な胴に触れているはずなのに、どこか焦がすような温さが指先に伝わり、大谷は内心眉を顰めた。
 しかし三成は大谷の内心など知る由もない。緩々と口の端を持ち上げ、三成は言葉を紡ぐ。

「私は家康を食らいたかったのだな、紀之介」

 ここまで充たされたのは、先の戦で秀吉さまに褒められて以来だ。そう告げながら、三成は腹をゆるくやさしく撫でる。
 大谷はその言葉で、全てを理解した。理解してしまったのだ。
 ――食らうたのか、三成。刈り取った徳川の首から溢れた命を吸うたのか。
 しかし、それを尋ねる言葉は大谷の唇からは紡がれない。大谷はそれが正しいということを確信していたのだ。ああやはりこの哀しき凶王を飢えさせるのも充たすのもあの男だけなのかと思うと、大谷は自身の腹の底へ家康に対する憎しみが鉛のように落ちて行くのを確かに感じた。
 しかし、その対象はもう失われた。家康の魂の残滓は三成に吸われ、三成を満たした。東軍本陣に残っているのはもはや抜け殻。大谷の汚泥のような憎しみは、水底に貯まるだけ。

「三成。徳川で腹は満ちたか」

 三成の胴から手を離し、ふたたび彼の頬についた血をぬぐいながら大谷は訊ねた。
 大谷の問いに、三成は妖花じみた笑みを浮かべ、「ああ」と一言頷いた。

「それはヨカッタ、ヨカッタ。今宵は良う眠りやれ」

 大谷はそう告げ、指先で三成の喉を柔くなぞった。三成はその指の感触にゆったりと目を細める。大谷の指が喉をなぞるのを享受する三成を見つめながら、大谷はぼんやりと、思索に沈んでいた。
 ――われの魂を吸うても、この凶王三成は充たされるのだろうか。
 その疑問は、誰にも告げられることなく、家康への憎悪と同じように、深い暗い水底に沈められゆくのだった。



write&up:2010/12/30
就活に嫌気がさしたので。年の瀬に胸糞悪くなる話だな、とは自分でも思います。