闇に融ける嗚咽
忍ぶ死の足音


 夕暮れ時を過ぎ闇に包まれた廊下に、佐吉の小さな足音が吸い込まれる。佐吉は腕の中の書物を抱え直し、半兵衛の自室への道を足早に歩いた。
 佐吉の腕の中に抱えられている書は、半兵衛に持ってくるよう頼まれた兵法書だった。
 急ぎ足で廊下の角を曲がり、まっすぐに歩く。数歩先、障子越しに薄ら漏れる灯りを見留め、佐吉は安心したように息を吐いた。その灯りが漏れ出るのは半兵衛の自室だ。
 佐吉はその灯りの前に立ち止まり、ゆっくり口を開いた。

「半兵衛様」

 しかし、中から半兵衛の返事が聞こえることはなかった。
 微かに首を傾げ、佐吉は再び中に向かって声をかけた。

「半兵衛様? いらっしゃらないのですか?」

 手元の書をきゅっと握り締めながら、佐吉は耳を澄ました。
 ――もしかしたら、半兵衛様は軍議か何かで、秀吉様の御部屋に行かれたのかもしれない。灯りを点けたまま、というのはあまり考えられないが。
 そうっと部屋の中の気配を窺うと、佐吉の耳が、ふと何か息の音を聞き留めた。一度気付くと、何故それまで気付かなかったのかと思わせられる呼気だった。
 潜められた、しかしどこか荒れた息に、佐吉は表情を変えた。

「半兵衛様!?」

 佐吉は返事も待たずに半兵衛の部屋に押し入った。
 佐吉は、許可もなく部屋に入ったことを半兵衛に叱られる可能性を考えなかったわけではなかった。しかし、半兵衛の無事が確認できるのならば、そのお叱りすら甘んじて受け入れる心算だったのだ。
 しかしその佐吉のちいさな覚悟は、こなごなに砕け散ることになる。
 開けた障子の先では、佐吉の敬愛する半兵衛が背を丸め這い蹲っている姿があった。口を覆う両手の隙間からは、赤い血が零れていた。

「い、今医者を……!」
「いらないよ、佐吉」

 慌てる佐吉を、半兵衛の鋭い叱責が制する。

「ならば秀吉様を……」

 なおも言い募る佐吉に、半兵衛は静かに首を横に振った。

「中に入って障子を閉めるんだ、佐吉」

 苦しげな半兵衛の言葉に、佐吉は静かに従った。佐吉の目には、ただひたすらに驚愕のみが映し出されている。
 半兵衛は口元を皮肉気に歪め――手と血でその表情は見えなかったが――ながら、佐吉を諭すように声を上げる。

「僕の臓腑は病に冒されているんだ」

 半兵衛の言葉に、佐吉の不安げに瞳が揺れた。
 この子は少し素直すぎるかも知れない。そう考えながら、半兵衛は静かに言葉を続けた。

「けれど、僕は秀吉の天下統一の為に生きる。今は、病に屈している場合ではない」

 さらに佐吉の瞳が揺らぐ。しかし半兵衛の言葉は止まらない。

「僕は軍師だ。死ぬのは秀吉の為、戦場でと決めている」

 半兵衛は乱れた呼気を整え、佐吉をまっすぐに見据えた。

「佐吉。このことは、君と僕との秘密だ。もし秀吉に聞かれても、口外してはいけないよ。隠した方が、秀吉の御為になる」
「は、んべえ、さま」

 佐吉の瞳は今にも涙をこぼしそうなほどに潤んでいた。
 その様子を見、半兵衛は儚く笑んだ。

「できるね、佐吉?」
「……は、い」

 とうとう佐吉の目から涙が落ちた。その涙を拭ってやろうと半兵衛は腕を伸ばしかけたが、その両手は血にまみれている。力なく、半兵衛の手は空を切った。
 しずかな薄明かりに、佐吉のしゃくり泣く声だけが響いていた。



write:2010/09/18
up:2010/09/19
幼少期に半兵衛の病のことを知っていてくれたら嬉しいなあ、という、妄想。
病のことを知っていてなお、半兵衛のことを敬愛していて欲しいなーと。思いましてですね。
三成……というか佐吉は病に対して偏見は持たない子だと思います。紀之助もいるしね。
佐吉ー! 俺だ結婚してくれー!!!!