抗えぬ血戯えに箍など
存在しない、ありえない
頬に付着した血を、幸村は震える吐息のままで拭った。彼の足許には、いくつもの屍が倒れており、その全ては幸村によって倒されたものだった。 「……はっ、はぁ、」 幸村の呼吸は乱れていた。何か足りないものを求めているような、不足を補おうとしているような、何かに怖れているような、けれど何かに歓喜しているような……そんな、呼気だった。 幸村の手持つ二槍に伝う血。紅蓮の槍に似合いのそれは、初陣のときに感じた感情を、ひとつひとつ取り出しては、幸村の脳に植え付けたり棄てたりする。半ば、困惑にも似た感情を抱きながら、幸村は槍を揮う。 断末魔は耳にこびり付き、溢れ噴き出す血は地面だけでなく、頬や腹に飛び散った。 木々に遮られ、あまり明るいとは言えない深い森の中、幸村の周りに人はいない。人だったものだけが、静かに佇む。響く息遣いは幸村のものだけ。野鳥の一匹すらいない。血の臭いと命が消えていくのを察し、森に住む動物たちは戦の前日にあらかた逃げ失せる。野性とは、かくもありなん。得てして動物は聡いのだ。 「は、ぁ――」 幸村は片手を膝にやって、深く息を吸う。呼吸を整え、何もなかった振りをして、武田の本陣に戻らなければならない。 そこまで考えた瞬間、がさりと草が鳴った。弾かれたように首を上げ、槍を構えんとした。姿を見せた蒼に、幸村は目を丸くした。それだけではなく、無意識のうちに咽喉が鳴ったことに気付いた人は、いなかった。幸村、すら。 「Oh, 真田幸村か」 低く、心地の良い声が、澱んだ空気を少しだけ緩和する。政宗は構えていた刀で虚空を一度斬り、また一歩幸村に近寄った。幸村の槍を掴む力が強まる。 幸村から視線を外さず、人を殺せそうな視線を放っていた政宗は、まばたきした。幸村が、いつもと違うように見えたのだ。何所が、とは具体的には言えない。ほんの微かな差異を感じたのだ。いつも闘っていたときとは、違う、何かを。 「具合でも悪いのか? だったらまた別の――」 機会にやりあおうぜ、互いにbestのときにな。と言おうとした言葉は、中途半端に途切れた。政宗の目が見開かれる。これでもかといわんばかりな、驚きに染まりきった色に染まる。 背中を強く地面に打ちつける。政宗は手の刀に力を込めるが、どこかいつもと違う幸村が、その刀を奪い去る。 はぁ、はぁ。幸村の荒れた吐息。頬に附着したまま、黒ずんだ血。 「Ah!? オイ、ちょっと待て真田幸村っ!」 「申し訳ありませぬ政宗殿――」 「申し訳ねぇと思うなら退け! お前俺を欺いて討って満足か?」 「そういうことでは、ありませぬ」 しかし、止められそうにはないのだ、政宗殿。 そう告げる幸村の目は、どこか、熱病におかされたように見えた。政宗は一瞬怖れとはまた違う何かを感じ、逃げようとした。しかし、異常なほどの力に押さえ込まれていて、それは適わず終い。 幸村は自身の頬にこびり付いた赤黒を拭うと、政宗の鎧に覆われていない布を、乱暴に引き裂いた。 write:2007/03/17 up:2007/03/18
ありがとう広辞苑シリーズ(?)第二段(第一弾はアイコノクラズム)。
辞書で見つけた瞬間、「これは書かねば!」と 胸に創作意欲が沸いたという、伝説のワード。 他のキャラも書いてみたいと、心から思う。 戦が常に隣り合わせの時代だからこそ、このキーワードが生きると思うんだ。 |