家計簿


「ノマルノマルー」
「……なんだ」
「構ってー?」
「後でな、後で。……くそ、計算合わねぇ」
「嫌やー! それ10分前も言ったやんけ!」

 じたばたじたばた、そんな効果音が似合う状態でつこみが喚いた。『構うて。構うてー』つこみは西丸の耳元で恨み言を呟いた。
 西丸は、先ほどから頻りに叩いていた電卓のボタンを押し違え、また初めからやり直すこととなった。……西丸の大きな手が、つこみの頭をまるでハンドボールよろしく引っ掴んだ。

「……あと、30分黙ってろ」

 切羽詰った、また聞く人が聞けば地から這い出てくる声に聞こえただろう声で西丸はつこみに言った。
 つこみはつまらなさそうに頬を膨らませると、ノマルの背中に字を書き出した。つつー、と縦に三本線。要するに『川』の字である。無反応な西丸に不満があったのか、次はもう一回ゆっくりと線を描いた――

「……っ!?」
「おー、やっと反応しおった」
「黙ってろって言ったよな? 言っ・た・よ・な!?」
「いややわ、ノマルー。俺、騒いでないやん。ただ背中にイタズラしただけやでー」

 つこみは手を上下に振って笑った。その行為までもが西丸を怒らせていることに、きっと当人は気付いていないだろう。
 西丸は手に持っていたシャーペンの先をつこみに突きつけて、また切羽詰った声でつこみに言う。

「40分間、生命活動を維持するのに必要なこと以外するな」
「ちょ、ノマル、10分増えてんで!?」
「俺を邪魔した罰。黙って正座でもしてろ」
「……愛が痛いでー、ノマルちゃーん……」

 西丸はその言葉を無視して、ノートに視線を下ろした。何度やってもあわない計算の所為か、仏頂面をしてノートを見下ろす西丸。
 つこみはそんな西丸をはじめはじっくり見ていることにしたのだが、如何せん飽きるのが早い。何かしようとは思うが、先ほどの西丸の言葉の手前やれない。する気になればできるのだが、これ以上怒らせるのも申し訳無いよなあ、と流石のつこみも思ったらしい。

「……」
「なんで何回計算しても3970円残金少ねーんだ……?」

 しかし、まだ10分も経ってないというのに、つこみはもう今すぐにでも動き出しそうだ。あと1分、持つか持たないかなんて賭けがあったら、10人中10人が「持たない」に賭けそうな勢いである。
 そわそわしだしたつこみに、西丸は小さく溜息をついた。そして、ちょいちょいとつこみを手招きして、近付いてきた隙に、そっと頬っぺたにキスをした。

「これで、も少し黙っててな」
「……」

 つこみがそわそわすらしなくなったのを良いことに、西丸は計算が合わないことによる偏頭痛にも溜息をつきながらまたシャーペンを動かし始めた。
 たっぷり2、30秒ほどの沈黙の後、つこみの大声は西丸の耳を劈いた。

「え!? ちょ、ノマ、今の何や! 不意打ちやん!」
「もう少し黙っててくれよ…」
「ノマ、もっかい! もっかいお前からキスしてーな!」
「……絶対もう二度とやらねえ…」

 西丸が小さく『あのまま放置しておいたほうが静かだったかもしれない』と呟いたのは、幸か不幸かつこみの耳には届かなかった。
 つこみの手によって、西丸の手に握られたシャーペンが放り投げられるまであと10秒――?





初版:2005/05/24 訂正:2006/09/29