神すら、知らない


 呆然と、目の前で、にやりと笑う顔を見つめていた。目の前の顔はあまりにも猟奇に満ちた笑みが拡がっていて、自分の背が凍りつくような感覚がした。
 抵抗しようにも、腕がコードで縛められていて身動きが満足に取れない。仮にこのコードから逃れられても、きっとこの目の前の男からは逃げられないだろう。そう思わせるほど、奴の目には猟奇が宿されていた。
 男は、舌で自身の口の端を舐めた。それを見て、ただ悔しさで唇を噛むことしか出来なかった。

 ――ああ、どうして?

 使い古された疑問の言葉は、言葉にすら、ならなかった。

「手首に痣できちゃったなー。痛そーに」
「……ンタの、所為じゃ、ないですか」
「はははは。そりゃ、そーだな」

 笑う目の前の男はこの状況を明らかに楽しんでいる、と肌で感じ取れた。それを脳がきちんと理解すると、肩が震えた。びくり体が震えて、手に力が入らなくなった。
 その隙を狙っていたのかいないのか、手首の痣をぺろりと舐められる。唇から覗いた紅い舌が、赤黒い痣を舐め、そして口付ける。その、行動の一つ一つも、怯える理由になるだけだった。

 ガタン、放送機具の上に無理矢理に乗せられた。冷えた機具の感覚は、全て自分以外の何かが感じているような感じがした。むしろ、今自分が感じている痛みも辛さも、怯えも全てが自分以外の感覚であればいいと、脳の隅っこの方で思っていた――。
 左腕で押さえつけられ身動きも取れないまま、彼が右手で放送機具のスイッチを入れたのを見た。
 ……主電源。――まさか。
 最悪の状態が頭の中で描かれる中、目の前の男は音量を最大に上げた。……まさか、ま  さ か。

「普通じゃつまんないだろ?」
「……つっ」

 服が裂かれて、首筋に唇が落とされた。ぞわっとした何かが背中を駆け抜けて、体の震えはまた強まった。
 息とも声とも取れない音が唇から無意識の内に出ていて、それを聞いて目を細めて彼は笑った。それは、酷く猟奇的で、狂気に満ちて。引切り無しに鳴り響く心音が、まるで。

「ほら、声我慢しないと全員に声聞こえるぞ?」
「――!」

 酷く潜められた声で、でも楽しげに囁かれた。一瞬で顔が紅く染まるのが、自分でもわかった。
コードが腕に食い込むのもお構い無しに脱出しようと抵抗してみた。肌が切れて、そこから血が少し滲むのが見える。痛、い。

「抵抗? まあ、それもありだな」
「んっ!?」

 目の前の男が笑った。その笑みは、酷く冷えていて狂っているように見えた。嘲笑われているような気がして、また背が凍るような気がした。
 冷えた手が、肌をなぞった。身体が震えてぞくぞくして、ただ唇を噛んで堪えるだけしか出来ない。
 紅い舌を出して、傷口から滲む赤色が舐めるのが見える。その紅は、人間的な色であるはずなのに、何故かその色は目に残らなかった。

 いっそう大きく強くなる心音が、まるで警鐘のようだと思った。

「……忌々、しい」

 相手に聞こえるような大きさで言い捨てた。
 目の前の男はそれを聞くと、口の端をまた上げて笑んだのだった。……酷く狂気に満ちたあの笑みで。

「――それはそれは。光栄だな」

 男は、耳元に唇を寄せて、そう囁いた。





初稿:2005/06/01 書換:2006/09/29