憎まれ口を叩くその口で、


 左肩の裏の辺りにかかる、震える吐息。その吐息の持ち主は、俺の体に所在無さ気に体重をかけている。予想より遥かに軽いこの体に、俺は少なからず驚いた。……確かに、いつも、自分より背が低くひ弱なことを揶揄したりしてはいたが、ここまで差があったなんて。
 背が温かい。首の横を通り、前で組まれる手。ときどき、その指が一度離れてまた組み直される。それが触れている場所が酷く熱く感じて、まるで自分が小学生にでもなったようだと心中笑った。

「居心地の悪い背中ですね」
「……誉さんウルサイ」
「したら山狐のほがうっつぁしーです」
「またそういうこと言う」

 俺を小ばかにするかのように言葉を転がしていた誉さんが、すっと黙ってしまう。誉さんの指が、また組み替えられた。
 背に感じる誉さんは、俺にそおっと体重をかけている。恐らく、俺に無理をさせないためだろうと思う。この人は、散々俺のことを山狐だの何だのと言って馬鹿にするくせに、俺に優しい。
 こう、変なところで表に出さない程度に優しいんだったら態度に出してくれても良いのに。なんて思ったりはする。……無いものねだりだってことは百も承知だ。

 この誉さんの重みを、重いとは全く思わない。誉さんが比較的痩せ型の部類に入ることも一因だろうけど、でも、それだけじゃない。
 ただ、誉さんの近くに居れるってだけで嬉しいから。そんな辛さを感じないのかもしれなかった。そんな、ただのガキみたいな幼稚な脳内構造のようだけれど、俺はその重みがむしろ幸せなもののように感じていた。誉さんから伝わるあたたかさが、ひどく幸せだと思っていた。

「、……」

 不意に、誉さんが小さく何かを呟いた。
 何を言ったのか問いかけようかとも思ったが、俺はそれをしなかった。だって、その言葉の対象は俺じゃない。誉さんは、俺を相手にして、あんなに弱々しいか細い声で言葉を放ったりはしない。
 口に出しても言い切れないようなほどの悔しさで、俺は唇を噛んだ。

「……ごめんない」

 誉さんが肩口に額を押し付けた。じわり、液体が染みてきて、ひやり、夜風が当たってそこが少しだけ冷たかった。前に回され組まれた手が強く握り締められているのが、痛々しく目に映った。
 ああ、どうしてそんなことするんですか。何があなたにそんなに辛そうな声を出させるのですか?

「……好き」

 え、と言いそうになった自分を押し止めた。この言葉も、自分に向けられているわけではないのだから、返答をするわけにはいかない。誉さんは俺の背中を通して、他の俺ではない――そう、絶対に俺ではない――誰かを見ているのだから。噛んだ唇から、血が流れた。

「好き、になって……ごめんない……」

 その言葉は、そう、言葉だけは俺にとって酷く甘美なものだった。けれども、それを紡ぐ誉さんの声、その声の響きがとても痛々しくて、ただただ俺はその言葉を聞かなかったふりをした。
 ぎゅうと俺にしがみ付く誉さんの腕の力が強くなった。誉さんの泣く声が、小さく耳に届く。決して俺のためなんかじゃないその泣く声が聞きたくなくて、俺は耳を塞いでしまいたくなった。小ばかにしたような言葉ぐらいしか俺にはくれないのに、どうしてそんな奴にそんな言葉を捧げるんだよ。
 どうして。
 ……ど う し て 。

 ああ、どうして俺はこの人を好きになってしまったんだろう。
 この人でなければ、こんな辛い想いしなくてもすんだかもしれないのに。

 夜が更けて、月の淡い光だけは俺と誉さんが二人でいることを証明していた。





2005/05/17