不器用


「誉さん、俺暇なんだけど」
「それはおめでたいですね」

 めでたくねえよ、と俺はぽつりと呟いたが、誉さんは気にする様子もなく手に持ったボールペンをくるりと回した。
 夕陽が差し込む放課後の生徒会室で二人きり。
 こんな状態でやることは一つくらいしか俺は思いあたらないが、誉さんは仕事があるらしく、忙しなく紙やペンを繰っている。
 大量印刷特有のインクのにおいがして、俺は溜息を吐いた。

「何かないっすか? 暇なんだって」

 散乱したシャーペンやら消しゴムやらといった筆記用具を手で払い除けながら問うと、誉さんが呆れたように苦笑した。
 そうして、誉さんの机の横に積まれていた紙の山がずいと差し出され、その上にホチキスが置かれた。

「……何これ」
「暇なんでしょう? これ手伝ってください」
「え、めんどい」
「頼みましたよ」

 問答無用なのか、誉さんはそれらをむりやり俺に持たせ、作業の続きをやり始めた。
 おいおい、本当に俺にやらせようとしてんの? と問いかけようと思ったが、誉さんの手をこれ以上止めさせるわけにもいかないか、と自分をむりやり納得させた。
 誉さんの前に座り、机の上に資料を置く。そうして溜息を吐きながら、ページを揃えてホチキスで留める。

「これ、何部作れば良いんすか」

 完成した冊子を副会長の机に置いて、質問を投げた。
 動かす手を止め、紙に落としていた視線を上げた誉さんは一瞬考えるような動作を見せたが、やがて答えが返ってきた。

「……四十部あれば十分です」
「一クラス分もいるんすか」
「生徒会と一部教師、その他予備で四十部。妥当な数ですよ」

 誉さんは目の間に指を当てながら、ふうと息を吐いた。
 ――確かに、こんなに仕事があったら疲れるだろう。俺は、誉さんが仕上げた書類の山に目をやった。
 こんな山のように仕事(比喩のつもりなのだが、そうも聞こえない)があるなんて、きっと酷く大変なのだろう。俺が任された仕事など取るに足らないはずだ。
 ……だが、こんな雑用じみたものは本当に生徒会長の仕事なんだろうか。書記とかの仕事なのではなかろうか。
 いや、途中までやってしまったのだから、最後までやるが。

 それにしても、こんなに仕事だらけで大丈夫なのだろうか。家では家業の喫茶店を手伝って、学校では生徒会の仕事に追われ。
 どんなに屈強な人でも、そんなハードスケジュールじゃ身体を壊すだろう。

「誉さん」
「何ですか」
「……大丈夫?」

 俺の言葉に、誉さんは意外そうに目を瞬かせた。
 そして、「別に」と答え、誉さんは眉間に当てていた手をおろし、またペンを掴もうとした。しかし、俺はその手を制して、もうひとつ言葉を重ねた。

「こんな仕事ばっかで、体は平気なんすか?」

 俺のそれより格段に華奢な腕を掴み、誉さんの目をじっと見つめた。
 目に見えて困惑している誉さん。俺は、ゆっくりとその名を呼んだ。

「誉、さん」

 机から身を乗り出して、軽く誉さんの右手を引く。それに負けてバランスを崩した誉さんに、掠めるようにキスをした。
 唇を離し、誉さんの顔を覗き込むと、肩を軽く軽くどつかれた。

「……何さかってるんですか」
「んー。何と無く、かな?」

 わざと声を躍らせてそう言えば、誉さんが呆れたように溜息を吐いた。そして、誉さんは椅子に腰を下ろし、作業をやり直し始める。
 まあ頼まれたもんはやりきらないとな、と俺も紙の山に手を掛けた。

「……大丈夫です」
「え?」

 唐突に声がかかって、俺は驚いて誉さんのほうを見つめた。
 誉さんは憮然とした表情で俺を一瞥してからすぐに手元に視線を落とし、そして言葉を続けた。

「山狐に心配されるほどやわじゃありません。平気です」

 誉さんの憎まれ口に、俺は思わず吹き出した。
 ああもう。この人はどうしてこんなに微笑ましいのだろう。どうしてこんなに、いとおしいのだろう。

「そう? なら良いや」

 貴方がそうやって憎まれ口を叩けるうちは、まだ大丈夫だってわかるから。
 そう心の中で付け加え、俺はホチキスで紙の束を留めた。
 ぱちん。静けさで満たされた部屋に音が大きく響く。

 橙色の上から群青色で塗り重ねた空が、だんだんと闇色に向かっていた。





2006/01/09