感情フラグメント


 雲模様が怪しいからさっさと帰ろう、と急いで玄関まで走ったのは良かったのだが、外靴に指を掛けたあたりでざあざあと音を立てて雨が降り出した。
 くそ、ついてねえ。胸の奥で毒づき、草臥れかけた靴を履く。……といってもわざわざ濡れ鼠になって帰るのはご免だから、俺はただ早く雨が止むことを念じるだけだ。
 何かねえかなとぐるり辺りを見渡すと、目の端で、ふと彼の姿を捉えた。灰白色の空を、酷く虚ろな目で見上げる彼の姿を。

「……誉、さん」

 濃紺の折り畳み傘を右手に持って空を見上げていた誉さんが、酷く緩慢な動作で振り返った。
 ほんの一瞬だけ、灰の空を見上げていた虚ろ目が俺を見る。
 でも、それは本当に一瞬のことで、その虚ろだと思えた表情が消えていつもと同じような目に戻った。

「何ですか山狐」
「……いや、あの」

 どうしてあんな目で空を見上げていたのですか。とも聞けずに、俺は意味を持たない音の集合を歯切れ悪く並べていた。
 誉さんはその俺の煮え切らない態度を何か別のことと勘違いしたのか、ああ、と短く相槌を打った。

「傘ですか」
「え? ……あ、そうそう!」

 違うと言ったら、じゃあ何なんだと追求されることは目に見えている。誉さんの言葉にお茶を濁すように返答した。
 誉さんが呆れたように溜息を吐いて、そして俺に背を向けてさっさと歩いて行ってしまおうとしていた。俺は、その背を追う。

「ちょ、待って誉さん!」
「なしてです?」
「こんないたいけな後輩捨ててく気っすか!? 薄情!」
「……」

 疲れた。そう言わんばかりの溜息を深々と吐き、誉さんは濃紺の傘をひろげる。折り畳み傘の割りに大きなそれを差し、誉さんが歩き出す。
 うわ、やっぱり、晴れんの待つか濡れ鼠になって帰るかか。と思っていたら、誉さんから言葉が飛んできた。

「入りたいなら勝手に入っても構いませんよ」

 そっぽを向いたままで、ぽつりと酷く小さな声で誉さんが呟く。
 その言葉を理解しようとしているうちに誉さんの姿がだんだん遠ざかっていくので、俺は急いで彼の差す傘の下に潜り込んだ。
 ひょいと誉さんの手から傘を奪い、俺の左手で傘を差した。勿論、誉さんに雨があたらないようにしながら。

「……」

 誉さんは、何も言わなかった。
 ざあざあ。雨が強く降る。叩きつけるように、何かを洗い流すかのように。何かを齎すかのように。
 時折、誉さんはさっき雨雲を見上げていたときのような虚ろ目をして空を見上げる。じっと見つめない代わりに、頻りに見上げる。
 ――あなたは今、空を通して何を見ようとしているのですか?
 問えるはずもない質問が咽喉から出てきそうになる。胸の奥に残る何かが痞えて苦しい。

「……誉さん」

 左手で持っていた傘を放り投げる。放物線を描いて傘が舗道に落ち、ころころと転がっていく。
 誉さんが俺を見上げて何かを言う。その目に、もう虚ろさは無かった。
 細い誉さんの躰を、自身の腕の中に閉じ込める。

「俺を、見てよ――」

 誉さんの肩が大きく揺れ、瞳の奥に明らかな怯えの火が灯るのを見た。しかし、俺は誉さんを開放しようとは思わなかった。思えなかったのだ。
 逃げ出そうと抵抗し始めた誉さんの体に絡める腕の力を、一層強くした。

 ざあざあ。雨も、一層強くなっていた――





2006/01/21