鈍痛がはしる痕跡(かこ)


 ぺた、ぺた。
 誉の裸足がフローリングを歩く足音が、夜の室内の空気を揺らす。上半身裸のままではかすかに肌寒かったが、自室に戻るのも面倒だったのか、誉は足早にキッチンへと立ち入った。
 ミネラルウォーターを手近なグラスに注いで、一気に煽る。勢いをつけすぎたのか、飲み損ねた水が口の端から首を伝って流れ落ちた。誉は小さな声で「もったいない」と呟きかけたが、言葉尻が掠れて消えてしまった。仕方なくもう一度水を注ぐ。
 声を洩らさないようにしていたとはいえ、体力の低い誉にそんな気力が残っていたのは最初だけ。終いの頃にはそんな矜持もどこかに霧散していた。気付けばあの山狐のすることなすことに翻弄されて――。
 こんなはずじゃなかったのに、と、誉は水の入ったグラスを傾けながら考えた。この特有の怠さも声を出しすぎたゆえの咽喉の違和感も、自分がふたたび味わうことになるなどと、過去の誉は思ってもいなかっただろう。
 水が半分ほど入ったままのグラスをシンクにおいて、誉はぼんやりと虚空を見上げる。
 ふと、思い立ったように、誉は自分の腹に走る傷跡に指をすべらせた。
 痛みはない、見るだけならただの古い傷。
 ――見るだけ、なら。
 赤みを帯びたまま残る痕跡を、もう一度誉はなぞった。少しだけ鈍くなった肌の隆起には、その指の感覚もいまいち伝わりにくい。ぐっと爪を立ててみると、やっと「触られている」という感覚が脳に走った。それに伴い、じくりとどこかが痛んだ気がした。
 この傷に触れると、肉体的にはまったく痛くはないのに、じくじくとどこが痛むような気持ちになる。彼のことを思い出すからだ。――自覚はある。
 自覚があるからこそ、誉はこの傷を滅多に触ろうとはしないし、昨晩も大和にそれを触られることを是としなかったのだ。あの時残った傷跡、そして、治りかけの傷跡の中に押し込んで塞いだ、蓋をして気付かない振りをしている想い――それらが躙られ暴かれてしまうような気がして。本当はまだ「過去」に出来ていない感情が戻ってきそうな錯覚がして、それだけは止めてくれ、と、誉自身「らしくない」と思う声色で懇願していた。
 誉はかぼそく溜息をついて、傷に触れていた手をゆるく握り締めた。
 この傷は、ある種の楔ともいえた。過去の記憶を誉に繋ぎとめる楔。ある意味呪いにも似ている――と、誉自身思わないこともなかった。

「誉サン、何してんの」

 突然の声に、誉は弾かれたように顔をあげた。その反応に苦笑しながら、声の発生源でもある大和は誉に近寄る。

「起きたら隣にいねーんだもん、びっくりした」

 と笑いながら、大和は誉の横に並んだ。誉は大和の言葉を無視するように視線をそらす。大和はそれに気付いたが、それには触れずに、誉の手に握られていたグラスを取り上げた。

「俺にもチョーダイ」
「それを先に言うべきじゃないですか」
「細かいこと言うなよー」

 ふと、大和は違和感をおぼえた。その違和感が大和の中で像を結ぼうとしたのとほぼ同時に、誉はか細くささやくように呟いた。

「……うっつぁし」

 大和はいつもと違う誉の反応に微か眉を顰めて、誉から取り上げたグラスに口を付けずに誉の顔を窺った。

「なんかあったの?」
「別に、何も」

 誉は大和の視線から逃げるように顔を背け、小さく、「ごめんない」とささやいた。
 その謝罪の対象は、大和なのかあの人なのか、誉自身、わかりかねていた。





2009/09/12