うたかたに消ゆ
「もう返します」 まっすぐ俺を見ながら、誉さんはそう言った。まるで俺を山狐と呼ぶみたいないつもと変わらない口調と、その表情はどこか見合わない。けれど、このときの俺は、その違和感に気付かなかった。 「返すって。俺、何か貸してたっけ」 誉さんはじ、と俺の目を見つめていたが、不意に興味を失った猫のように視線をそらした。まるで自然に、自然すぎて不自然なくらいに。 こつん、と小さな音を立てて、何かがテーブルの上に置かれた。誉さんから視線を外してそちらを見れば、あの時彼が「踏ん切りがつくまで預かる」と奪うように持って行ったたまごっちが置かれていた。今の俺たちの関係のきっかけと言っても過言ではない、それ。 「え」 「返します。結局振られた女っごのことさ忘れてないでしょうけど」 それだけ言うと、誉さんは立ち上がった。どこ行くんすか、と口を開こうと思ったが、口の中は何故かからからに乾いて声が出ない。 数歩歩いた誉さんが、ゆったりと振り返る。顔が見れない。誉さんが、あの時、どんな顔をしていたのか、見れなかった。 「女っごの代わりに、俺のことさ忘れれば良いっしょ」 ――そうして、俺と誉さんの関係は、終わってしまった。手元に残ったのは、あの人から返されたたまごっちくらいだ。まさかこのたまごっちが別れの象徴になるだなんて思いもしなかった。しかも、一つのならまだ「あるかもしれない」と言えるが、二つの別れの象徴だ。呪われているとしか思えない。……アレか、俺が死なせたオヤジッチの呪いか。適当なことを考えてみたが、気分は全く晴れなかった。 テーブルの上のたまごっちを指でなぞってみる。冷たくて、硬い。そりゃそうだ、電子機器がぐんにゃりと柔らかかったらびっくりする。けれどその冷たさに、言いようの無い絶望感を感じたのも事実だった。 それを撫でるたびに脳裏を過ぎるのは、恵やんの姿と、誉さんの姿ばかりだ。癒えたと思ってたのに、この痛みは忘れたと思ってたのに――恵やんの笑顔が過ぎった瞬間、声を上げて泣き出したい気分になる。今でも容易に思い出せる誉さんの憎まれ口は、今なお愛おしいと思えて、ああ俺って馬鹿だな、と、一人ごちた。どうして誉さんから別れを切り出されたかすらわかんないなんて。 けれど、明日にはこの重い気持ちを表に出すわけにはいかないのだ。誉さんとの関係は表沙汰にできるものではなくて、放送部の奴らにだって隠し続けていたものだ……いや、だった。いくら俺と誉さんの間にあった関係が切れてしまったからといって、それを表に出していいはずがない。今まで奴らにはなかったものなんだから、無くなってから「あった」ものだと存在を教える必要性は、ない。 だから、この気持ちは、今日中に整理をつけなければならない。整理をつけるのが無理なら、どこかに隠し置かなければならないものだ。膨大で、甚大で、俺の中を塗りつぶすこの感情を。絶望とも悲哀ともつかない名付け難い感情を、悟られないように全てどこかに仕舞わなければならない。 そっと、たまごっちを手に取ってみた。初めて手に取ったときはあんなに嬉しかったのに、今ではそんな懐かしい思い出すら霞んでしまっている。 ひやりと冷たい楕円形。 それは、まるい形をしているのに、まるで鋭利なナイフみたいに俺の心に突き刺さった。 痛みをこらえながら、たまごっちを握り締める。痛みにつられるように、口を開く。そして、ゆっくりと名を呼ぼうとして――誰の名を呼ぼうとしていたのか、一瞬、わからなくなった。けれどそれも一瞬で、すぐに意思を取り戻した俺は、咽喉の奥で小さく「誉、サン」と呟いた。 その名に引きずられるように、感情が沸きあがる。その沸きあがる衝動のまま、手の中にある痛みをごみ箱に投げつけた。カン、と短く高い音を上げ、たまごっちはゴミ箱の縁にぶつかり、ゴミ箱の中ではなく床に落ちる。 気付けば、涙が滲んでいた。 「……なんで」 俺は、床に転がるたまごっちをぼやける視界で見つめたまま、何もできずにいた。 rewrite:2011/06/12 up:2011/06/14 |