そのあたたかいうでに
実技で珍しくへまをしてしまい、俺は滅多に訪れない医務室へ歩いた。まぁ、へまといっても、左腕に傷が出来た程度だ。命に関るような事は殊更無い。 もう既に己の手で人を殺めている。こんな傷が命に別状が無い事を、俺はもう知っていた。 「鉢屋。どうしたの? 風邪でもひいた?」 医務室の扉を横開きに開くと、中にはお人好しで名の知れた善法寺先輩がいた。彼は保健委員長だ。いてもおかしいことは何一つ無い。しかし俺は小さく舌打ちした。如何せんこの人はお人好し過ぎるのだ。それが俺には鬱陶しくて仕方がない。 先輩は持っていた薬瓶を棚に戻しながら、はっと気付いたような表情を浮かべた。眉を潜めて、俺の方を窺う。 「……怪我だね。どこだい?」 先輩の問いに、俺は左腕を無言で差し出した。血が滲んで黒ずんだ忍装束。先輩の表情が一瞬強張って、驚いたような顔つきになる。そして、苦く笑うと薬瓶と包帯を棚から出して、俺に傷口を出すように言った。 言われた通り傷口を外気に晒そうとして布を引っ張るが、取れない。傷口に忍装束が張り付いて、やけに不快だ。 「あ、鉢屋! 駄目だよ。そんな無理に扱うと、治るものも治らなくなる。僕がやるよ」 そう言うと、先輩は懐を漁った。探しているものが見つからないのか、狼狽している。――ああ、どうして俺はこんな先輩の世話になっているんだろう。俺の方が、遥かに技術も、何もかもが上なのに。 本当に見つからなかったのだろう。どうしようといった表情で先輩は懐から腕を引き抜いた。顔は僅かながらも青白い気もする。どうしてそこまで、他人である俺を心配するんだか。俺には全然わからない。 「ごめん鉢屋、十手とか手裏剣とか……この際、まきびしでも構わないから、刃物、持ってない?」 「……ありますよ」 掴まれたままの左手を動かさずに、右手で懐から愛用していた十手を出して、善法寺先輩に手渡した。――あの時も、愛用していた十手。 「ありがとう鉢屋。無かったらどうしようかと思ったよ」 そう言って笑んだ先輩の表情は、嫌なくらい俺とは対照的な気がした。どうしてそんなに、白く、暖かいままでいられるのだろうか。俺には無理だ。もう場数が違うから。俺は前線に出て戦いがちだが、先輩は保健委員という役職も手伝い、養護班にいることが多いと聞く。 先輩と俺とは、全く違う。 「痛かったら言ってね。どうにかするから」 「……」 先輩は十手で俺の左腕の忍装束を破った。その手付きは酷く手馴れていて、鮮やかなくらいだった。痛かったら言え、と言ったが、痛みなんて全く感じなかった。 「鉢屋はお利口だね。『痛い』って言って騒がれないなんて久し振りだ」 「こんなの痛くないじゃないですか」 「そう? 小平太はよく『痛いよ、伊作くん!』って騒いでるよ。本当に痛いわけでは無いらしいけど何か痛い感じがするんだって」 先輩は破いた忍装束を肩の辺りで括って結ぶと、傍らに置いておいた薬瓶の蓋を開けた。中には無色透明の液体が入っていた。独特の匂いがする。――消毒液だ。 「沁みるかもしれないけど、我慢してね」 「……っつ」 傷口にひんやりした感覚を感じて、少しして肌に刺すような痛みを感じた。少し、感覚が麻痺していたのかもしれない。 俺の傷口にかけた消毒液を布で優しく先輩は拭いた。傷の辺りは本当に優しく、まるで壊れやすいものに触れるかのように拭いた。――俺はそんなに柔じゃない。そう言いたかった。 「包帯巻くよ? きつかったら言ってね。ある程度までは緩めれるから」 くるくると、これまた手馴れた手付き。先輩の交友関係はきっと怪我をする人が多いのだろう。火器の達人と、忍術学園一忍者している男とやたらと騒がしい男とが友人であれば、怪我も絶えないだろう。当然の結果だ。 「鉢屋がこんな失敗するなんて、珍しいね」 「そうですね。自分でも思いますよ」 「……」 先輩は急に黙って、俺の腕に巻いている包帯を結んだ。また先輩は立ち上がると棚から薬草らしきものを二つ取り出した。その片方を湯のみに入れて、お湯を注いだ。それをずいと俺の方に寄越す。 「はい。化膿止めだよ。飲んでね、今すぐ」 そう言って差し出された湯のみに口をつけて、一気に飲む。ちょっとだけ苦い気がした。 「よく一息で飲んだね。それ、苦くて不味いって評判なのに」 「そんなもの飲ませたんですか?」 「だって、化膿止めはそれしかないから仕方がないんだよ」 そう笑いながら先輩は言った。白い薄紙で薬草を包んで、それを俺に差し出した。 「これは痛み止め。傷口が痛んできたら使ってね。使い方は化膿止めと同じ」 「……わかりました」 差し出された薬包を、懐に仕舞い込んだ。先輩は少し、訝しげに俺を覗き込んでいた。訝しげといってもその中には何故か不安気という表情も含まれていた気がした。 「ねぇ、鉢屋。一体どうしたの?」 「……だから、実技で失敗して……」 「そうじゃないよ。その失敗に至るには、何かがあったとしか思えない」 俺は、思わずさし黙った。何故だか、図星をさされたような気にもなった。でも、思い当たるようなこともない。俺は何一つ不調になる要素は無いだろう。 「思い当たる事、無いんだろう?」 その言葉は本当に温かかったのに、俺の心は何故だか冷えた気がした。俺の事をよくも知らないくせに、どうしてそんなことが相手にわかってしまうのだ。しかもこの人よりも俺のほうがよっぽど上なのに。どうして。 「鉢屋は、頑張りやさんだね」 先輩は、そう言って微笑んだ。言葉も、笑みも、とてもとても、本当に温かかった。先輩の手が、俺の頭を、優しく撫でた。撫でた手が肩に下りて、結んだ忍装束を解いた。 「でも、鉢屋は頑張りすぎてるよ」 先輩の表情は、温かいままで、でも声はどことなく寂しげに聞こえた。先輩が解いてくれた忍装束が、ふわりと包帯の巻かれた腕に戻った。 「もう少し肩の力を抜いていいし、もう少し自分を出していい。自分を偽らなくていいんだよ」 もう一度先輩が頭を撫でた。その手の温かさに、俺の箍が、融けて消えそうになる。感情が溢れてしまいそうになる。満杯になった甕に、まだ酒を注ぐかのように、溢れて止みそうに無い。 「我慢しなくていいんだよ。鉢屋は我慢をしすぎたんだから」 先輩の言葉に、俺の箍が、一瞬で融けるような錯覚が、した。まだ頭を撫でていた先輩の胸に、額を押し付けるような姿勢をとった。 「大丈夫、大丈夫」 とん、とん、とまるで子供をあやすように先輩は俺の背中を撫でる。ただ温かくて、優しくて。俺は、そのまま先輩の胸に額を更に押し付けた。歪んだ顔を、見られないように。 「――全部、受け止めてあげるから」 その言葉で、俺の箍は完全に融けてしまった。俺の感情を貯める甕は、粉々に崩れ壊れてしまった。感情が、溢れてしまう。 「大丈夫だよ、鉢屋。僕は、偽りの鉢屋も、本物の鉢屋もどちらもちゃんと知っているよ」 その言葉に負けて、先輩の腕の中で小さな声をあげて、泣いた。先輩は俺の背と頭を今も尚撫で続ける。その温かさが、酷く心に染み渡った。 俺を包み込む先輩の腕は、まだ、温かかった。 初書:2004/10/23、訂正:2005/06/14、訂正2:2006/09/29 |