こわばる指先
――琥一。 聖司の程好く低く甘ったるい声が、俺の名を呼んだ。 聖司が俺の名を呼ぶ音は、いつだってどこか緊張をはらんでいた。その緊張は、怯えなのかもしれない。 幼い頃の力は今とは比べようもなく弱かったが、それ以上に加減知らずだった、という自覚はある。殴って泣かせただけではなく、ただの意地悪で泣かせた回数ですら、ごまんとある。数え切れない。刷り込みの効果で、今でも怯えられていてもおかしくはない。 身長差故に、聖司を見下ろす。昔っからこいつとはこんな身長差だった。その所為もあってか、あまり聖司を年上と認識したことがない。 いつだって聖司――セイちゃんは、俺の後ろを泣きながらついてきていた。 今となっては、そんな素振りは一切見ないが。 「何だ」 「……別に、何でもない」 聖司はそう言って踵を返した。 ぴんと伸びた背筋。いつも泣き虫だった『セイちゃん』からは、あまり想像のつかない姿だった。 ふと、俺は放課後毎日のように聞こえるピアノの音色を思い出した。音楽室に行って見たわけでも、「誰が弾いているのか」を誰かに聞いたわけではない。しかし俺にはあの音色の奏者が聖司だとわかっていた。 「聖司!」 呼び止めると、眉間に皺を寄せて奴は振り返った。不機嫌そうに結ばれた唇がひらく。 「何だ」 「……今日は弾いてかねぇのか」 顎をしゃくって音楽室の方を示すと、聖司は意外そうに目を瞬かせた。 「知っていたのか」 「曲りなりも幼馴染だぞ? 聞きゃわかる」 「……」 聖司は溜息を吐き、今日は別件の用があるんだ、と言った。 そう言われてしまっては引き下がらざるを得ない。そうか、とだけ返すと、聖司は一瞬だけ思案顔を見せた。……なんだ? と口を開こうとしたが、その瞬間聖司のその表情は消え失せた。 「お前もたまには帰ったらどうだ、琥一」 「ああ……まぁ、追々な」 俺の言葉に、聖司は呆れたように肩をすくめた。どうせ生返事の癖に、と読まれているのだろう。 ふたたび聖司は踵を返し、階段を下りてゆく。次こそ呼び止めるネタも無く、そのまっすぐ伸びた背筋を見送った。 二人のあいだに横たわるのは、俺にはもう縮め方もわからない距離感だった。 write:2010/08/11 rewrite and up:2011/07/13 |