「これ、このあいだ勉強教えてくれたお礼! もらって!」

 そう言われ、友人が私の右手に乗せた小さなブルーのチェックの包みを、「よくわかんないけど、じゃあ、ありがたく……」と受け取ったのが今日の昼休み。つまり、ご飯を食べてる最中。それを鞄に入れて、その存在をふと思い出したのがついさっき。わかりやすく言うと、英語の予習が終わった後。そーいやこんなものもらったっけ……と、包みを丁寧に開くと、小さなピンク色の小瓶がころりとひとつ。

「わー、私じゃ絶対買わないだろうなー。こんな可愛い色」

 そう思いながら、何となく、テーブルの上においてみた。薄いピンク――ベビーピンク、かな――のマニキュア。こつんと瓶を指先で突付く。ダルマよろしく、倒れかけてもまたすぐに元に戻る。
 もらったんだし、塗ってみようかな、と瓶を手に取ろうとすると、ぱたぱたと部屋に足音が近付いてきた。ぴたりと、伸ばしかけた指が虚空で止まる。ノックもなしに無遠慮に扉が開いた。私は顔を確認せず、声をかける。

「――孝介、ノックぐらいしてって、いつも言ってるじゃない」
「別に良いじゃん。今まで着替えとかそういうとこに鉢合わせたことないだろ」
「今後のこと考えてよ……」

 はあ、と溜め息ひとつ。おとなりさん同い年、――まあ、いわゆる幼馴染である孝介は、いつもいつも「いちおうノックぐらいはしてよ、マナーでしょ」という私の言葉を無視してノックなしで(ついでに、遠慮もなしに)私の部屋の扉を開く。孝介はうちのお母さんのお気に入り(うちのお母さんは可愛い物が大好きだ)(多分、孝介のクラスメイトの三橋くんとかも気に入ると思う)(多分だけど)だから、ここまで来るのなんて、ほとんど顔パスだ。

「それはどうでもいいとして。、英語の訳見せて」
「……どこの?」
「19ページ。レッスン2の最初のとこ」
「ん、そこなら授業ももう終わったし大丈夫ー。てか、9組ってまだそこなの? 随分遅いね」

 重い腰をあげて、さっき鞄に入れたばかりの英語のノートを取り出して、孝介に押し付ける。てっきり、持って帰って写し終わったら窓から放られるのかと思ってたのだけど、予想外に、孝介はとすんと我が物顔で座り込んで、テーブルの上に私のと孝介のノートを拡げだした。

「あのセンセ、授業は遅いし話はつまんないし最悪。俺もそっちが良かった」

 シャーペンで私の方へさして言う孝介。……あのー、孝介さん。この部屋の主はいちおう曲がりなりも私なんですけど。と思いながらも、私は何も言わない。もし言ったって、この辛口な孝介と口げんかするなんて負け戦とわかってて戦争を仕掛けるのとおんなじこと。
 私は孝介が写し終わるまで雑誌でも読んでようと、出しっぱなしだった本を拾い上げて、ベッドに横になる。ぺらりと本を開いて視線を落とす。部屋に響くのは、孝介の字を書く音と、私のページを捲る音、あとついでに、掛け時計の秒針の音。

「――終わったー。サンキュ」
「んー。今度何か奢ってね」
「おう、高すぎるもんはなしな」
「おーけー。あ、ノート鞄に入れといて」
「自分で動けよ」
「自分で英語の予習しないで私のを写した孝介には言われたくない」

 流石にその自覚はあったのか、孝介は「しょーがねーな」と言いながら鞄にノートを入れてくれた。

「ん?」
「え、何かあった?」
「これ何?」

 雑誌を閉じて孝介のほうに視線をやる。孝介は至極真面目な顔で、マニキュアの瓶を持っていた。女顔の孝介とマニキュア、という組み合わせは大変お似合いだったので、内心笑いながら返答する。

「マニキュアだよー。わかんない?」
「いや……もこういうのつけるんだなーと思って」

 お前化粧っ気ねえのにな。と孝介は呟きながら、小瓶を物珍しげに傾けたりしながら見てる。

「まああんまり化粧しないけど……それ、もらいものだから」
「へー。男?」
「まさか。孝介、私にそういう人いないの知ってるでしょ」

 パタンと、雑誌を閉じて、身体を起こして孝介のほうに視線を向けると、孝介はあろうことかまだ私すら開けてないマニキュアのボトルの蓋を取っ払っていたのだ。

「っこ、孝介?」
「ふーん……こーなってんだ」

 もしかして孝介ってそっちの趣味が……と不安になりながらその様子を見ていると、孝介が自分の爪にそれを塗るってことはせずに、私の目をじっと見て、ひとつ問い掛けてきた。

、塗ってもいい?」

 恐る恐る、本音で問う。

「……孝介の爪に?」
「馬鹿。お前の爪にだよ」

 すぱん、と一刀両断にされた。馬鹿、とか言われたけど、良かったと思ってる自分がいる。孝介に女装趣味とかあったら、私ちょっと落ち込む。

「……孝介が、私の爪、塗るの?」
「そうだけど」
「……どうして」
「塗りたいから」
「そうですか」

 ――思わず敬語になった。けど、突然どうしたんだろう。孝介が私にマニキュア塗りたいだなんて、天変地異の前触れ? とすら思ってしまう(結構虐げられてるんだよ、今まで)。

「で? 塗って良いの、駄目なの」

 孝介が少し苛立ったように問い掛けてくる。怒らせちゃまずいから、急いで思考を巡らす。手の指……は、明日学校あるから、多分落とさなきゃ駄目だよね? 折角塗ってもらうんだったら、ギリギリまで取っておきたいしなあ。

「えーと、足の指なら……」
「それでいいや。ほら、足出す足」

 何でそんなに尊大なの、と心の中で思いながら、姿勢を変えて、ベッドから足だけ下ろす。つまり、ベッドに腰掛けてる感じに。孝介は屈んで、っていうか、跪いて(どうして今日の孝介はこんなことするの、か、なあ!)私の足に触れる。触れられてるとこ、あつい。(心臓うるさいじゃん! ばか!)
 爪の上をつつ、と通る冷えたマニキュアの感触がくすぐったいのと、この状況が凄い恥ずかしいのとで、ほんの少し足を動かしてしまった。

「ちょ、馬鹿! はみ出すって」
「あ、ごめ……」

 うう、怒られた。動かないように動かないように……と、自分に言い聞かせながら、私の足の爪にマニキュアを塗るのに勤しんでる孝介をじっと見つめた。私の視線に気付いてるのかいないのか、わからないけれど、孝介はひどく真面目な顔している。ピンク色に彩られてゆく私の爪を仕上げるその手付きはとても丁寧で、孝介の少し乱暴な口調とは大違いだなあ、なんて思った。(まあ、孝介が丁寧に喋ったら、それはそれで怖いけど)
 すう、と、左足から熱が離れる。ふわん、と、足が投げ出されて、「あーあ、ちょっと淋しい」なんて思っちゃう自分がちょっといやな感じ。
 次は右足を拾われる。そっと、硝子細工でも取り扱うみたいに触れてくる孝介がいつもと違って、なんかドキドキする。

「ん、できた」

 孝介はテーブルの上にマニキュアの瓶を戻した。けれど、私の足をそっと持ったまんま。私はどうしていいかわからず、孝介に言葉を投げる。

「孝介?」

 孝介は私の言葉を無視した。
 そして、孝介は、何を思ったのか。持っていた足に、そっとくちづけやがって下さったのだ。

「――っ!? こ、こ、こっ、こーすけっ」
「ん? 何」

 そう言って、私を見上げてくる孝介。私の前で跪いたまま、にっと不敵な笑みを浮かべた。孝介の真面目な目と、私の視線がかち合って――。
 私は、逃げられなくなった。

「……

 そっと、爪を撫でられる。孝介の指が、やさしい手付きが、声が、私を絡め取った。




ベビーピンク

理由? ――ちょっとムラムラしたんだよ。それだけ。



2006/08/06