「ただいまー」

 ふう、と息を吐いて自分の家の扉を引いて開ける。家の中はしん、としていて、人の気配がなかった。玄関の靴を確認する。廉の靴もお母さんの靴もない。お母さんは買い物にでも出かけたのだろうけれど、廉は一体何所へ? と、一瞬首を傾げそうになったが、私はその考えを取り消した。ほんの僅かに空気を揺らす、小さな音を耳が捉えたから。木製の的にボールが当たる音がする。私は極力音を立てないようにして、そちらの方へと歩き出した。
 ――音が、大きくなる。
 ボールを放る音が、鼓膜を揺らす。的にボールが当たる音は、空気を強く振動させる。――歓喜が胸の奥から競り上がってくるのが、わかった。見えるのは廉の後ろ姿だけ。的を見据えるまっすぐな目も、真剣であろう表情も見えないけれど、私には、廉がどんな顔をしているか容易に想像がついた。
 ふう、と息を吐く廉に向かって、声を掛ける。

「廉」
「……、
「まずは、ただいま」

 少し身構えた廉にそう告げると、虚を突かれたような顔をして廉は瞬いた。けれど、すぐに復活して「あ、おかえり」と返してくれる。廉は私の顔色を窺うようにしているのか、私の目をちらちらと見てくる。私はそれに気付かない振りをしながら、言葉をゆっくり紡ぐ。

「――私、廉が楽しんでるのを見てるのが、しあわせなの」

 廉は、私が何を言わんとしてるのかわからないみたいで、首を傾げている。

「廉は野球をするのがいちばん好きでしょ?」

 躊躇いがちに頷く廉を見て、私はほっとした。

「だから、廉は私に対して負い目も何も感じないで、野球をやって良いんだよ。私は、野球をやってる廉を見るのが、好きなんだから」

 ぱちくり、と。私の言ったことにたいしてひどく驚いた顔をしている廉の目を、まっすぐに見据える。さっきグラウンドを探していたのをすぐに諦めた廉に言いたかったことは、言い切った。本当はもっと他にも言いたいことはあるけれど、いっぺんに言ってしまえば、廉は混乱してしまうから。

「えと、俺も、が楽しい方が、いいんだ」
「うん」
「三星の野球部の頃の話、したら、は悲しそうな顔、したから。だから、野球は止めなきゃだめ、って、思った」
「うん」
「みんなでやる、野球は、だめだと、思うんだ」
「……」
「けど、投球練習は。――俺の野球は、続けても、良い、の?」

 廉の言葉に、私は静かに頷いた。廉の表情は、見る間にほころんだ。




微かに前進

ほんの僅かの成長に感じるけれど、それでも、大きな変化で。



2006/09/15