我が家の庭のすみ、廉の練習場で夜の風を感じながら、私はまっすぐに的を見つめてボールを投げる廉を見ていた。晩ご飯の前と晩ご飯の後、毎日ここでくりかえされる廉の習慣。それをじっと見つめ、ときどき投げる場所を指定したりする――のが私の習慣だ。
 きぃんと音が響いた。晩ご飯前から数えて、本日通算58回目の聞き慣れた音だ。

「廉。――右下、投げてみて」
「右下……わかった」

 真面目な目。いつものようなおどおどとした人の機嫌を伺う目なんかじゃない。強い眼で的を見据えて、構える――
 廉がボールを投げる相手は、的になった。昔は捕手を相手に投げれた。――たとえ彼が、廉を投手として認めていなくても。廉が投げたボールを取ってくれる、受け取ってくれる人がいた。今はいない。たった一人で、野球を続けてる。
 ――私が男だったらよかったのに。私が男に生まれればよかったのに、と思ったことがあった。もし、私が男だったら、絶対に廉を裏切らない捕手になったと思う。廉の力を引き出してあげられる、廉を勝たせてあげられる捕手になりたかった。西浦にそんな人がいればいいのに、そう思ってしまう。――廉が、ちゃんと野球部に入るかなんて、今の私には危ないつなわたりでしかないけれど(今の廉は、西浦に硬式野球部があるなんて知らない)。
 ボールが当たって、的が揺れる。高い音が、きぃんと響く。それは勿論、私が指示した九分の一の右下に当たっていた。

「ん、ナイスピッチ、廉」
「ありがと」

 廉はそう言って、もうひとつボールを構えた。ひゅう、と風が吹いて、私のスカートと髪がほんの少しだけ舞う。ぱさぱさと、薄茶で廉とおそろいの髪が舞う。私は手でスカートを押さえて、廉の背を見つめた。
 野球をやっているとき、マウンドに立っているときの廉は、とても頼もしい。いつもの廉とは全然違う。おどおどしてて、言葉もよく途切れがちないつもの廉とは、真逆だ。いつもの廉より格好良い、と思う。
 風がやむ。――廉がボールを投げる。モーションを、目に刻む。きぃん、音が鼓膜を揺らす。

「60球目。今日はここまでにしよう、廉」
「――うん」

 傍らに置いていたタオルを、廉の頭にぽすりとかける。そして、水で薄めたポカリを入れたペットボトルも手渡す。廉が小さく「ありがとう」と呟いて、こくりとそれを飲んでいる。
 私は落ちているボールを拾い上げ、籠に放り込んでいく。いちにさん……数を確認して、全て拾いきったと一安心して、廉のとなりに腰掛けた。廉はタオルで顔を拭きながら、私に、声を掛けてきた。

、」
「なあに?」
「ほんとに、俺について来て良かったの?」

 廉が恐る恐る尋ねてくる。私は目を瞬いた。

「――もちろん。廉のいない三星に、未練ないよ」
「そっか、うん。ありがと」

 廉は私の言葉をかみしめるように、小さく呟いた。私は廉の頭をぽすぽすと撫で、そして私も廉に尋ねてみる。

「私、廉にとって邪魔じゃない?」
「――邪魔じゃない! いてくれなきゃ、やだ」
「そっか。――ありがと、廉」

 上手く笑おうとして、ちょっとだけくしゃくしゃな笑顔になった。廉も、私がしたように、私の頭を優しく撫でてくれる。その感触は優しくて、あたたかい。
 廉の手、今日はあったかい。いっぱい動いたから、かな。そろそろ中に入らないとだめかも。

「明日、入学式だね」
「うん」
「楽しい高校生活になると、良いね」

 私の心からのねがいに、廉は強くうなずいた。



未来なんて知らないけど

望むぐらいなら、いいでしょ?



2007/05/02