阿部くんが私の腕を掴んでいる。痛いとは感じないけれど、逃れられない程度に、しっかりと。逃れようと腕を小さく振っても、阿部くんは放そうともしてくれなかった。

「阿部、くん?」

 どうしてこんなことをするのか尋ねようと、恐る恐る名前を呼びながら、阿部くんを見上げる。
 ……けれど、思わず、目を逸らしてしまった。
 なぜなら、阿部くんは、野球をしている間中のような強い目──ホームで廉からのボールを受ける時と同じ表情──で、まっすぐに私を見下ろしていたのだ。見下ろすだけで、阿部くんは何も言わない。話さないし、放してもくれないけれど。

「……どう、したの?」

 視線を合わせられぬままで、そう問い掛けた。けれど、やっぱり阿部くんは、何も言ってくれなかった。静けさが、重くなっていく。
 どうしてか、私は今すぐにでも逃げ出したい気持ちになった。理由は分からないけれど、これ以上は耐えられないと思ったのだ。怖いとも言えない、正体不明の感情が胸を覆う。逸らした視線は宙を泳ぎ、どうしようもできなくなる。再び阿部くんと目を合わせられるだけの度胸はなくて、私はふっと俯いた。後頭部に、阿部くんの強い視線が当たっているような気がした。
 俯いた視界にあるのは、床と、私のスカートと、掴まれた右腕と、阿部くんの左手。きちんと爪が切られ、ささくれた指先。廉の投球をすべからく受ける、もの。
 くらり、と、した。
 私がなりたくてもなれなかった捕手という存在が、今目の前にいる。中学の頃に、何度なりたいと思ったか分からない存在。もちろん、技術も性も私には全く追いつかない。当然のことだったけれど、日に日に笑いを失っていく廉のとなりにいた私には、耐えられないことだったのに(廉はそんなこと俺のためにしなくて良い、と、いつも言っていたけれど)。
 今目の前にいる阿部くんは、私が求めてやまなかった廉の球を受けるという行為を、事も無げにやってのける。そんなつもりはないだろうけれど、私に見せつけるかのように。
 私が阿部くんをあまり見ていたくないと思ったのは。阿部くんが怖いと思ったのは。廉の試合を、何故か真っ直ぐに見れなかったのは。

 ……ただ、私が、自分の感情に気付きたくなかっただけなんだ。

 私は阿部くんが羨ましかったんだ。今の今まで気付かなかったけど、きっと、ズルイとまで思っていたんだ。廉からの絶対的な信頼を寄せられる阿部くんという存在に、嫉妬すらしていたんだ。
 この黒くて自分勝手で自分本意な、廉には絶対に見つかりたくない『嫌な私』に蓋をしたかっただけ。廉が離れて行ってしまうのが怖くて、それに気付かない振りをしようとしていた、私の傲慢。

「……や、」

 阿部くんがいなければ良かったのに、と一瞬でも思ってしまったなんて、どれだけ私は浅はかで愚かなんだろうか。廉が野球を続けるには阿部くんたちがいないと駄目だなんて、容易に分かることなのに。わかってたのに。わかるのに。
 どうして、そんなこと、少しでも思ってしまったんだろう。
 そこまで思い至った途端、視界がぐらりとゆがんだ。

「……やだ」

 いつから。いつからこんなひどい考えを持ってしまったんだろう。
 こんな嫌な私、廉にはばれたくない。どうしようどうしようどうしよう、廉に、廉に嫌われちゃう。大切な、廉を、失ってしまう。
 スカートと私の手の色が滲んでく。水を入れすぎた水彩絵の具みたいにじわりじわり、色が混ざる。

「みは、し?」

 阿部くんの声が遠く感じる。私は誤魔化すように小さく首を振って、掴まれていない方の手で涙をぬぐった。けれど、ぼろぼろと次から次へと涙があふれ出てきて、それも追いつかない。
 私のその挙動を不審に思ったのか、阿部くんが私の顔を覗き込んだ。私が泣いていることに気付いて、阿部くんは驚いたように声を上げた。

「ちょ、おい三橋どうした?」

 大丈夫か、どっか痛いのか? ……まだ何もしてねえつもりだけど、俺の所為か? と矢継ぎ早に飛んでくる質問に、ふるふると首を振る。
 阿部くんは何も悪くない。悪いのは、ひどいことを考えてしまっていた、私だ。

「阿部くんの所為じゃ、ないよ。……目にごみが入っちゃって、」

 涙声でごまかしの嘘混じりの返事をすると、納得したのかどうなのか、阿部くんはそっと私の右腕を離した。
 私はもう一度涙をぬぐって、小さな声で「ごめんね」と呟いた。

「何に謝ってんだよ」
「急に泣いて、びっくりさせちゃったでしょ。だから、……ごめんね」
「……別に」

 びっくりさせて、ごめんね。……あなたのその椅子を、羨んでごめんなさい。
 その言葉は飲み込んで、私はそっと目を伏せた。咽喉の奥が、焼けるように痛かった。



羨望の先に、あなた

どんなに望んでも、私はあなたになれない。



2010/05/01