何も言わない。私は夏にそぐわぬ黒い服を着て、ぼんやりしていた。黒色が太陽の光を吸収して、少し暑い。
 今日みたいな、暑い、夏の日だった。ひぐらしのなく声が聴こえ始めた夕方で。今日の晩ご飯はそうめんが良いな……とか考えてた頃だと思う。――勇人から、電話があった。何かを喪ってしまったような、虚無感を抱かせる声だった。電話口で、勇人は、「母さんが、」とだけ言った。携帯を握り締めたまま、走ったのを憶えてる。どこにいるのか、も聞かなかったくせに。
 ――勇人のお母さんは、一昨年の夏に、亡くなった。彼女のお葬式で、私は思わず泣いてしまった。とても優しい人で、私も大分お世話になったから。けれど、勇人は決して涙なんか見せなかった。
 それ以来、私は、夏の暑い日、黒一色に身を包む。盂蘭盆の時期より前だけは、少なくとも。

「……?」
「勇人。どしたの、買い物?」
「あ、うん」

 黒づくめの私を見て、ひどく気まずそうな顔をする勇人。そして、ぽつりと呟く。

「……暑く、ないの?」
「暑いよ」

 私は迷わず、正直に答えた。夏場に黒い服を着て、炎天下の中に突っ立ってれば、暑くないはずがない。勇人が瞑目する。ならば外になんて出なければ良いのに、黒い服なんて着なければ良いのに――と、勇人の目が言っている。私はそっと勇人の目から視線を逸らすと、ぼんやりと虚空を見上げた。

「――

 勇人が、私の名前を呼ぶ。虚空を見上げてた視線を下ろして、勇人をまっすぐ見る。

「なに?」

 少しつっけんどんな言い方になった、と自分でも思った。けれど、勇人はそんなの気にしないで、「帰ろう」とだけ、言った。

「……うん」

 歩き出した勇人の左斜め後ろをキープしながら歩く。歩きながら、勇人はまた、ぽつりと呟いた。私は勇人の言葉をじっと聞いていた。

「その黒い服って、やっぱり、俺の母さんの――?」
「うん、そう」

 静かに、そう返した。勇人はこっちを向かないで、小さな声でまたぽつりと言う。

「どうして? だって――」

 勇人は、言いにくそうに、躊躇った。勇人の足が、ぴたりと止まる。私もそれに倣って足を止めた。勇人が振り返って、私の目をまっすぐ見る。戸惑いに揺らめく勇人の目を、真っ向から見つめ返して、私もゆっくりと言う。

「あのとき、勇人が、泣かなかったから」
「え?」
「勇人が泣かなかったから、私が泣くの。勇人が辛いなら、私はもっと辛くなるから」

 勇人の悲しさは、代わりに私が発散する。勇人の中に哀しみが蓄積されないように、私がこうやって思い出して哀しむから。
 私が静かに告げると、勇人はぱちくりと目を真ん丸くした。勇人のその表情はなんとも見慣れないもので、こちらとしても大変驚いていたのだけど、すぐにくしゃりと勇人は笑った。唐突なことに、次は私が目を丸くする番だった。

「勇人?」
「何でもない。――ただ、は優しいなって」
「……? 突然どしたの?」
――ありがとっ」

 勇人が、私の手を取って歩き出す。

「え? ちょ、勇人? え、ど、どしたの」

 唐突なことについていけない私の頭は、とりあえず勇人と手を繋いだまま歩くだけで、精一杯だ。よくわからないまま、ぎゅう、と勇人の手を軽く握り締めると、振り返って勇人がまた笑った。




香炉

思い出す、あの夏の辛い想い。思い出した、あの夏の優しい君の腕。


2006/08/08