あなたは、いない

　学校の屋上からグラウンドを見下ろして、わたしは短く息を吐いた。吐きだした息は夜闇に溶け込んで、消えていく。夜とこの場所特有の寒気が、私の肌を撫でた。
　ここは烏森。限が守り、そして、散っていった場所。妖を呼び寄せ力を貸し、いくつもの血を吸った土地。退屈を嫌い愉悦を求む貪欲さ（しかも善悪の区別もないときたものだ）は人間よりよっぽど人らしいとすら思えた。――決して、好きにはなれないが。
　ふ、と、黒芒楼の妖どもが大挙して押しかけてきた日、限が死んだ数日後の光景が頭をよぎった。べたついた体液の感触まで蘇り、私はそっと腕を撫でた。吐き気がする。
　わたしは、思いの外つかれている、らしい。
　不機嫌を隠さずに舌打ちをすると、閃と秀がびくりと肩をゆらした。それに気づかないふりをしながら、頭を振る。振り払いたかった。

「わたしは、彼らを――あの二人を許せない」

　神がゆるしても、仏が赦そうとも、この烏森が許したとしても。
　力を込めた指の先、錆び付いた屋上のフェンスが軋む。いっそ外れてしまえばいい、と投げ遣りな思考が浮かんだ。

「わたしはきっと、ゆるすことは出来ないのよ。例え、あの死が限の望んだものだとしても」

　祝うように、呪うように、呪詛と思慕をこめて、吐き出した。その視線の先にいるのは墨と雪。
　選ばれたもの。
　この土地に好かれたもの。
　限が守ろうとしたもの。
　限を、守れなかったもの。

「、ちゃん」

　秀の呼びかけに振り返る。秀と閃は随分と深刻そうな表情を浮かべながら、私のことを見つめていた。
　風が吹いて毛先がもてあそばれる。私は二人から視線をはずして、髪の先を見つめた。

「無理なら帰っても良いんだよ、ちゃん」
「……平気。任務に私情は挟めないから」

　彼等は観察対象だし、この土地は保護対象。わたしがどんなに憎々しく思っていても、ね。
　ゆっくりと、いつもと変わらない調子でそう告げると、閃と秀は哀しげに顔をゆがめた。「そんな顔、あなたたちはしなくていいのよ」とだけ言い、わたしはその二人に背を向ける。フェンスに指をかけ、ふたたび黒と白を見下ろした。
『滅』、という声は、どこか遠く聞こえる。

「なぁ」

　フェンスがぎしと音を鳴らす。ちらりと見ると、閃が座ってフェンスに寄りかかっていた。わたしの方は見ていない。返事をしながら、先ほどのように校庭を見下ろした。

「なに？」
「お前、つらくねーのかよ」
「それ、答えなきゃダメかしら」
「……別に」

　つか、もうその言葉が答えみたいなもんだし。と言った閃の言葉は聞こえなかったことにして、「そう」呟きを返す。届いたかどうかは、わからない。
　隣の空気が動く気配がした。恐らく、閃が立ち上がったのだろう。

「秀。別の場所から見るぞ」
「え？　……あ、うん」

　ついていこうとすると、「はそこから見とけ」と先手を打たれた。
　……そういうことか。秀の優しさはわかりやすいけれど、閃の優しさは表向きにはとてもじゃないけどわかりにくい。でも、そのわかりにくさが、気楽ではあった。

「」

　閃の呼び声。わたしは振り返りもせずに返す。

「なに？」
「無理。すんなよ」

　おもわず、フェンスを掴む指の力が強くなった。けれど、それには気付かず、わたしの返事を待つこともなく、二人は遠ざかっていった。
　二人の気配がほとんど感じられなくなってから、ぽつりとわたしは本音をこぼす。

「無理すんなよ、か」

　限のいない世界では、それをしないとやっていけないのに。
　ぎし、フェンスの軋む音が響いてきえていく。
　音の消えた向こう、黒い霧につつまれた空には、月も星も、あなたすら見えなかった。

write:2009/10/13 up:2009/10/19
限を大切に思っていた分だけ正統継承者を憎いと感じてしまうのではないか、と、思って。最近の本誌を見て「もっと早く、これを習得してたら」と複雑な気分になったのは私だけではないと思います。
話は変わりますが、先日、HDDの中を掃除していたら、六巻から原作に沿った結界師のノベル乙女ゲーシナリオの冒頭部が出てきました。十巻の衝撃で続きを書けなくなって。でも、今では「続きを書こうかな」と思えるまでダメージも癒えています。
もう4年経つ、ん、ですね……。
限くんに、安らかな眠りを、どうか。