揺れる波間、かたる静寂 01
私には、もうずっと止まったままの記憶がある。
厳密には、わざと止めている記憶がある、と言った方が良いのかもしれない。
もう「思い出」として終了させてはいるけれど、でも何処かでまた会えると信じている人がいるのだ。児童養護施設で育てられていた頃の、幼い記憶。その頃よく遊んで、幼い恋心を寄せた相手。大切な預かりものを預かっている人。
当初、彼からはあまり好かれていなかったけれど、私は彼の弟と仲が良くて、弟を迎えに来た彼に睨まれたりすることもあった。けれど、いつの間にか――あれ、何がきっかけだったんだっけ? そこは忘れちゃった――打ち解けていって。そのまま穏やかに時は流れていったけれど、それから数ヶ月して、彼は引き取られていくことになった。何ていう会社だったかは覚えていないけれど、どこか大きな会社の社長さんに。お別れが決まった日に、私は彼の前でぼろぼろとみっともなく泣いてしまった。
「さようならじゃないよ」
その時の彼の言葉は、今でも鮮明に、脳内で再生できる。
「また会えるから――」
その時までこれ預かってて、と、涙を止めることができなかった私に、彼は母親の形見を握らせた。私は今でも、それを大事に持っている。……今も、その形見のバレッタを、私は身につけているのだ。いつ再びまみえてもいいように。
で、何故唐突にそんな遠い昔、今更叶うはずもなかろう記憶を、しかも英語の授業中に掘り返しているのかというと、先ほど授業中に現れた、もう何ヶ月も学校に姿を現していなかった不登校児が明らかにどっからどう見ても彼――瀬人くんだったからだ。
名簿を見る機会も何度かあったから、名前が同じであることにちょっとした偶然を感じたりもしていたけれど、まさかまさか、ご当人だとは思わなかった。あ、なんか驚きで気が動転してる。
会えるか会えないかの確率は天文学的数字なんじゃないかって思っていた相手が、こんな身近な存在だったなんて。もう何度目かわからない英単語のスペルミスを消しゴムで消しながら、私は深呼吸した。そして、いつもよりも進みが遅い気がする時間に、心中悪態をつく。早く休み時間にならないかな。
心ここにあらず。またシャーペンの先が、eとaを間違えた。
授業も終わって、私は逸る心臓を深呼吸で抑えながら立ち上がった。どう話を切り出せば良いのか分からないけれど、とりあえず早く話をしたい。もう一度深呼吸して、いつもだったら空席の、瀬人くんの席に視線を向け……たら、また空席だった。あれ?
肩透かしを食ったような気分で、椅子に座る。職員室に行った、とかかな。ずっと来てなかったし。いつ帰ってくるんだろう、とそわそわしてしまう自分をむりやり押さえつける。
「、どうしたの、挙動不審だけど」
「え、ああ、うん、なんでもないよ」
杏子にちょっと心配げに聞かれてしまっては、そう返事をすることしかできない。私、そんなに挙動不審だったろうか。
「なら良いけど。今廊下で先生に会ったけど、に職員室に来いって言ってたわよ」
「え、私なんかしたかな……何の話か言ってた?」
「進路の話とか言ってた。二者面じゃない?」
「そっか、じゃあ行ってきます」
「はいはい、行ってらっしゃい」
いつ瀬人くんが席に戻ってくるかが気になって、後ろ髪が引かれる思いだったけれど、先生を必要以上に待たせるのも失礼なので、とりあえず早々職員室に向かうことにした。
「失礼しました」
職員室から退室して、ふう、と息を吐く。いつも思うんだけど、どうして職員室って教室よりも冷暖房がしっかりしてるんだろう。取り留めのないことを考えながら、教室へ戻ろうと向きを変えて――私は動きを一瞬止めてしまった。
私の視線の先には、あの頃から随分背が伸びた、瀬人くんがいた。近寄る長身を見つめて、一つ深く深呼吸。ゆっくり、震えないように、声を上げる。
「瀬人くん、久し振り。私のことおぼえてる?」
自分の名前を呼ばれて、瀬人くんは始めて私という存在を視界に入れたかのような反応をした。――冷たい目が、まっすぐ私を射る。思わず背筋を伸ばしてしまいそうになる目。私の知らない、ひやりと煌めく刀めいた冷たさを湛えた目だった。
その瞳の青さは、あのときそのままだったのに。
「――貴様は誰だ。貴様に名を呼ばれる筋合いはないはずだが」
ぶつりと。周りの音が分断されたような気がした。
けれど、まあ、想像していなかったと言えば嘘になる。さすがに何年も前のことだし、忘れてしまうのもそう詮無いことだから。私は表情を繕って、瀬人くんを見上げた。
「です。ごめんね、人違いだったみたい。えーと……お名前は?」
「海馬だ」
「人違いしてごめんね、海馬くん」
そう返すと、瀬人くん――いや、海馬くんは、ふん、と鼻を鳴らして、職員室に入っていった。その背を見送って、私は息を吐く。
忘れられている可能性を予期していたとはいえ、実際そうなると、思っていたよりダメージは大きかった。もう少し私が幼かったら、海馬くんのあの言葉を聞いた瞬間泣き出していたかもしれない、と少し芝居がかった考えが浮かぶ。
「……うん、まあ、でも仕方ないんだよ」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は教室に戻るために歩き出した。
――それは、止まっていた記憶の歯車が、もう一度、小さな軋みをあげて動き始めた瞬間だった。
write:2008/12/10 up:2008/12/31