揺れる波間、かたる静寂 02

 書店の参考書コーナーでぼんやりと本の背表紙をたどり、数学UBの青チャートを手にとってぱらぱらと中身を流し読みする。数学はあまり得意じゃないけど、これぐらいできなくちゃ駄目だよなぁ……と心の中で呟いて、溜息を吐いた。手の中の参考書をいったん棚に戻して、別の参考書を手に取って解説を読む。いくつかの参考書を見てみたけれど、どうにもやる気が起きない。やらなきゃいけない、と思うけれど、なんだか腰が重い。

「やっぱりチャート式かなぁ」

 なんだかんだで有名どころは有名になるだけの理由があるんだと思う。数学が苦手だと、その良し悪しもいまいちわからないけれど、世間の風評にたまには流されるのもありだろう。たぶん。
 一番最初に見た青チャートを棚から引っ張り出して、レジで会計を済ませる。水色のビニール袋に入った本を手に持ったまま、新書のコーナーを覗いてみた。
 何か面白い本でもないかなぁ。

「……?」

 手近なところにあった本を手に取ろうと腕を伸ばしたところで、声をかけられた。聞き覚えがあるような、ないような、懐かしい気さえする子供の声。振り返れば、黒い髪の男の子がこちらに駆け寄っていた。
 目が、合う。

「モ、クバくん……?」

 おそるおそる、名前を呼んだ。昨日の出来事がよぎって、少し胸が痛くなる。

「やっぱりだ! 久し振りだな!」
「うん、久し振りだね、と、と」

 ぎゅうっと、昔みたいに勢いよく抱きつかれた。少しふらついてしまったのを蹈鞴を踏んでこらえる。ああ、モクバくんだ。瀬人くんの影からちらちら周りの人をうかがって、けれど懐いた人にはとても甘えん坊になるあの時のモクバくんそのままだ。全然、変わってない。
 抱きついたままのモクバくんの頭を撫でてみる。と、ぱぁっと明るい笑顔になったモクバくんがこちらを見上げてきた。

「それ、懐かしい」
「……うん、久し振りに会うからね」
「うんそうなんだけど……それだけじゃないんだぜぃ」

 どういうこと? と尋ねようかとも思ったけれど、モクバくんはぎゅうぎゅうと私に回す腕の力を強くする。もしかして聞かれたくないことなのかな。どうしていいか少しわからなくなって、私はまたモクバくんの頭を撫でた。
 感触は変わらない。昔より、少し髪質が滑らかになったような気もするけれど、施設に来る前は親戚中をたらい回しにあったと聞いていたから、それも当然のことのような気がした。

「おっきくなったね。びっくりしちゃった」
「だってオレ、もう11だぜぃ?」
「そっか。もうそんなに経つんだね」

 しみじみと呟く。そう、もうそんなに経つのだから、瀬人くんが私のことを覚えていないというのも、無理な話ではないのだ。そう思うと、少し悲しくなった。未だにあの時瀬人くんに言われた言葉を信じてるっていうのも、大概女々しくてばかばかしい。わかってるけれど、やっぱり寂しいものは寂しいのだ。
「また会ったら」って言ったのに。……瀬人くんのうそつき。

「……?」

 悲しみが表情に出ていたのかもしれない。心配そうな表情のモクバくんが、私を見上げていた。ごまかすように笑って、言葉を繋げる。

「あ、なんでもないよ。ちょっと懐かしくなっちゃって」

 ふーんと、納得しているのかしていないのかわからないモクバくんからの返事に思わず苦笑した。
 しかしこれ以上店内で再会劇を繰り広げるわけにもいかず(店員さんの視線がちょっと痛かった)、私とモクバくんはとりあえず書店から出ることにした。

「も、モクバ様!」

 黒いスーツにサングラスという風体の背の高い男性が、モクバくんを見るなりそう叫ぶ。「サマ!?」と私は一瞬驚きかけたが、そういえば瀬人くんとモクバくんは確か有名な大企業の社長だかに引き取られていたのだということを思い出す。

「……撒いたと思ったのになぁ」
「だから探したのですよ。書店に用があったならお声をかけていただければよかったのですが」
「別に用があったわけじゃないよ、ちょっと……な」

 変わってないと思ったけれど、私が見ない間に、モクバくんは少し大人になったようだった。なんかちょっと寂しいな、と思ってしまう。なんだか年寄りくさいなぁ、という自覚はあるけれど、そう思った。
 私にはよくわからない世界だなぁ、と、モクバくんと黒服の男性を見ながら考えた。こんな大人の人と対等に会話をするモクバくんはすごい。

「モクバくん、何かあるみたいだし、私もう帰るね」
「……ごめんな、久し振りに会えたから、もっと話したかったのに」
「仕方ないよ。でもすごいね、モクバくん。会社、手伝ってるの?」

 先ほど繰り広げられていた会話から拾った話題を尋ねる。すると、予想外の言葉が返ってきた。

「オレ、KCの副社長だからさ。会社を手伝ってるっていうより、社長の兄サマを手伝ってるって方が正しいよ」

 あんまりにも予想外な事実に、思わず目をまばたかせてしまった。私を見つめるモクバくんは「あー、知らなかったかやっぱり」と言いながらけらけらと笑う。

「別に気にしなくていいんだぜぃ。オレは確かに副社長だけど、それ以前に『モクバ』だからさ。今までどおりで、な」
「いや、うん、だいじょうぶ。ちょっとびっくりした、だけ」

 そう言いながら、モクバくんの頭を撫でてみる。……大丈夫、変わらない。この子は、昔よく遊んだ、「モクバくん」だ。私の中で何も変わることはない。

「モクバ様、申し訳ありませんが……」
「あ、悪い。オレ、もう行かなきゃ」
「ううん、こっちこそ引き止めてごめんね。……また、会える?」

 あの時の言葉を思い出しながら、私はモクバくんに尋ねていた。モクバくんは一瞬驚いたような表情をしていたけれど、すぐにほころんだような笑顔で声に喜色を滲ませた。

「当然だぜぃ! 絶対また会おうな!」

 黒服の男性が私に一礼した。そんな私にまで礼儀正しくしなくてもいいのに、と思いながら礼を返す。モクバくんが黒い車(車種とか全然わかんないけど、どっからどう見ても高そうだ……)に乗り込むのを見送って、私もゆったりと歩いて帰路に着いた。





write:2008/11/24 up:2009/01/01