揺れる波間、かたる静寂 21

「これを見ろ」

 カツン、と音を立てて、海馬くんは私の前に何かを置いた。言葉に従って見ると、見慣れた青いバレッタが置かれていた。瀬人くんから預かっていた、記憶以外で私と海馬くんを繋いでいた唯一のもの。あの時壊れてしまったはずなのに、それは元の通りに修復されていた。私が預かったとき、そのままの姿でそれはそこにあった。
 私も、瀬人くんも、モクバくんだって成長して、何処かが変わって行ったのに、何も変わらずそこにあるバレッタに、理不尽にも泣きたくなる。

「あの、それは」

 本来は私のものじゃないから、と告げようと口を開いた。しかし、私の言葉を遮るように、海馬くんは口を開く。

「これは、元々はオレのものだな?」
「えっ?」
「いや――厳密にはオレの母親のもの、か」

 海馬くんはそう言ってくつくつと笑っていたけれど、私はその言葉に言葉を返せずに、ただただ海馬くんの顔を見つめていた。
 ――ねえ、海馬くん、ぜんぶ思い出したの? それとも、一部だけ? それが母親の形見だということだけ? 私に預けていたということまで? 施設でよく一緒にいたことまで?
 私は一体どんな表情をしていたのだろうか。自分でも把握できずに海馬くんを見つめていたら、彼は指先でバレッタをとんとんと撫でながら口を開いた。

「全て、と言ったらどうする」
「え、あの」
「全て思い出した、とオレが言ったら、貴様はどうする」

 海馬くんの青く真剣な目が、私をまっすぐに見つめていた。
 どうして言ってもいないのに私の考えていることがわかったのか、なんていう普通なら浮かぶであろう疑問なんて何処か別の場所に捨て置かれてしまって、私の頭の中はまっしろな雪原のようだった。

「……なあんにも」

 それでも、私は、震える声でそうとだけ搾り出した。
 私は、「瀬人くん」をとても大切に思ったまま、今の「海馬くん」も好きになってしまったから。もし海馬くんが昔のことを思い出しても、むしろ、思い出してしまったら、あの時の瀬人くんの気持ちに縋りついてしまいたくなる。あの時ああ言ったのに、と、みっともなく詰め寄ってしまいそうだった。

「何だと?」
「だって、私は、海馬くんにこれを返したかっただけだから。……だから、何も」

 できないんだよ。海馬くんのことを考えずに、自分勝手なことをしてしまいそうだから――とは告げずに、ゆったり立ち上がった。

「お話って、これだけ? なら、私、帰るね」

 じゃあ、さよなら。と海馬くんに背を向けて歩き出すと、腕をつかまれてぐっと引かれた。バランスを崩して転びかけたのを、蹈鞴を踏んで堪える。
 顔を上げると、紺碧の瞳が、私を射るように見つめていた。咎める色合いすら孕んだ、海馬くんの瞳。


「――っ、」

 名前を、呼ばれた。海馬くんが、私の名前を、びっくりするくらい優しい響きで紡いだ。背筋が、震える。
 聞き間違いじゃなかった。
 あの時、確かに海馬くんは、私を名前で呼んだのだ。

「オレは貴様が欲しい。貴様は違うのか」
「え――?」

 熱っぽい海馬くんの声が、するりと、私の耳朶に侵入してきた。どくんと心臓が跳ねる。

「あの時言ったことも。昨日の言葉も嘘なのか、と聞いている」
「あ、の時って……」
「確かにオレは忘れていたが。……あの時の記憶なしでも、貴様が欲しいと思う」

 澄んだ青い瞳は、今だけは私を、私だけを映していた。

「オレは貴様が好きだ」

 海馬くんが私の腕を解放する。腕から離れていく温度に、寂しいと感じた。

「貴様はどうだ」

 何も言えずに、海馬くんの目を見つめた。頭の中がぐちゃぐちゃで、上手く言葉にできない。
 そのままじっと見つめていると、海馬くんは僅か目を細めて、右手で、私の頬に触れた。

「オレを求めろ。……オレの名を、呼べ」

 少し冷たくて、大きな海馬くんの手が、私の左頬に宛がわれた。長い指先が、かすかに私の頬をなぞる。
 少しだけ屈み込んで、私の目をまっすぐに見つめてくる海馬くんの青い瞳。欲しくて欲しくて仕方なかったまなざしが、私を、私だけを、優しくするどく見つめている。

「かいば、くん」

 震える咽喉から、声をしぼりだす。

「……せとくん」

 頬に宛てられた手に、おそるおそる、震える手を添えた。
 どくんどくんと騒いで、心臓が跳ねる。添えた手の指先が震える。いろんなものが溢れてしまいそうだった。

「どっちも好き、だいすき」

 瀬人くんも海馬くんも。今のあなたも昔のあなたも、どちらも好きなの。

「私は、欲張りだから、『瀬人くん』も『海馬くん』も、どっちも欲しかったの」

 指先に微かに手を込めて、海馬くんの手を拘束した。縋るように彼の手をなぞる。
 目じりがじわりと熱くなって、融解した。

「……貴様はよく泣くな」

 呆れたような声が、すぐ近くで聞こえる。視界を滲ませる涙を、海馬くんの長い指が優しく拭ってくれて、もっと泣きそうになる。

「あの時と変わらん」
「あの時って、施設にいた頃のこと?」
「ああ。あの時も泣いただろう、滅多に泣かん性質だと思っていたから驚いたぞ」

 くっ、と海馬くんは咽喉の奥で笑った。あの頃の瀬人くんとは違って、けれど海馬くんそのものだと感じられる、少しニヒルな笑い方。

「……あの時は別れだったな。無力だったからこそ、オレは手放すしかできなかった」

 瀬人くんの言葉が、そこで途切れる。すっと瀬人くんの目が細められるのを、私はびっくりするくらい至近距離で見つめていた。

「だが、もう貴様のことを手放しなどしない。ずっとオレの傍にいろ。……

 青い、瞳が。私をまっすぐに見つめて、私を求めていて。さっきまで冷たかった指先が、ひりひりと熱くなっていた。
 海馬くんの手に添えていた手をそっと離して、私は海馬くんの背に腕を回した。海馬くんの胸に額を押し付けて、顔を隠す。

「……もう、置いてかない?」
「ああ」

 海馬くんの腕が、私の背に回って、優しく撫でられた。なだめるように、たしなめるように。そして、私の存在を確かめるように。いとおしさと涙が溢れて、私はくぐもった声で質問を重ねた。

「私、一緒にいて、いいの?」
「……いてほしいと、願っている」

 海馬くんの優しい声が、左耳のすぐ近くから聞こえてくる。また一層涙が溢れてしまって、回した腕にぎゅうっと力を込めた。

「……私も一緒に、いたい」
「そうか」

 ほっとしたような響きすら感じられる、優しい声。昔の瀬人くんに似た、けれど低くなった海馬くんの声。海馬くんも瀬人くんも、おんなじ存在だったんだと、ぼんやり思った。ただ、私が区別してしまっていただけのことで。

「……瀬人くん。ひさしぶり、だね」

 瀬人くんの顔が、不思議そうな表情に変わったのが、気配でわかる。わかってくれなくてもいい。ただ私が、もしも会えたら言いたいと考えていたことを、今言いたいだけ。

「……ああ。ひさしぶり、

 静かに、物柔らかな言い方でそう言って、瀬人くんは私を抱きしめる腕の力を微かに強くした。今というこの瞬間が、ずっと続いていけば良いのにと、柄でもないことを考えるくらい、幸せで。
 ――別たれた二つの時間は、今重なった。










write:2008/12/20 up:2009/12/30