揺れる波間、かたる静寂 03

様。お時間よろしいでしょうか」

 杏子と一緒に校門から出て、およそ三歩ぐらい。様付けという思ってもみなかった呼ばれ方で呼ばれて、驚いてそちらを向くと、黒いスーツに身を包んだ背の高い男性がいた。どこかで見たことがあるような気がして、暫し逡巡する。
 ……あ、思い出した。この間モクバくんを迎えに来た黒服の人だ。名前は……えーと……だめだ、そこまでは思い出せない。そもそも言ってたっけ?

「磯野さん? どうかしたんですか、海馬くん関連?」

 私の隣を歩いていた杏子が、男性を見て不思議そうに尋ねた。今日は来てなかったはずだけど、と杏子は首を傾げる。「いえ、瀬人様ではなくモクバ様の御用事なのですが」と、磯野さんは静かに返答した。

「モクバくんの用事……?」

 小学生が「高校に用事がある」ってどういう事態なんだろう、という思いを込めて問いかけた。私と目を合わせた磯野さんは、洗練された仕草で私に軽く礼をした。……なんか、こういう対応って慣れなくて背中がくすぐったい。

「はい。モクバ様が様を呼んでほしいと仰っておられましたので、迎えに来た次第でございます」
「へ? 私?」

 予想外な言葉に、すこし間の抜けた声が出てしまう。しかし私のその反応は大して気にならないのか、磯野さんの反応は「はい」と短く返すだけにとどまった。

とモクバくんって知り合いなの?」
「うん、まぁ、昔なじみでもうずっと会ってなかったんだけど……最近再会した、感じ」

 あの頃は仲良しだったよ、と、言った当人ですらなんとも評価しがたい言葉を続けた。案の定、杏子はちょっと眉を下げて溜息を吐く。

「……じゃあ今日のはモクバくんに貸してあげるわ」

 苦笑交じりに言った杏子は、私の背中を軽くぽんぽんと叩いた。なんだかその手に「がんばれ」と言われているようで、ほっとした私がいる。

「あ、ありがと、杏子。今度絶対埋め合わせするから」
「りょーかい。楽しみにしてる。じゃ、また明日」

 ひらひらと手を振って杏子を見送る。
 杏子の背中が見えなくなってから、私は磯野さんのほうを振り返った。よろしくお願いします、と告げると、磯野さんはすこし困ったように笑って、「こちらに車が停めてありますので」と私を案内してくれた。この間モクバくんが乗ったのと同じくらい高級そうな車。磯野さんが車のドアを開けて「どうぞ、様」と頭を下げるのが、なんかもう本当に不思議な光景でしかない。年上の人に敬語を使われるってだけでも違和感を感じるのに、今のこの状況はくすぐったくてしょうがない。

「ありがとうございます。あの、なんか、すみません……」

 緊張したままふかふかの座席に座りながら、こういう状況になじめない私は小市民体質なんだろうか、いや馴染める人もそう居ないよね、と取り留めのないことを考える。窓の外の景色を楽しむ余裕は、ない。
 乗り心地が良すぎてびっくりしちゃう。本当に車なのかな、これ……。ていうか特に何も疑わずについてきちゃったけど、人攫いとかだったらどうしよう。……いや、杏子と磯野さんが顔見知りだったみたいだからそれはないだろう。自分でも思考の手綱をつかめていないと思うような、突拍子のない思考に苦笑してしまう。
 車が緩やかに停車する。ぼんやりと顔を上げて窓の外に視線を滑らせて、とうとう私は思考まで真っ白になった。
 ……なにあれ。すっごい。ごうてい?

様、到着いたしました。ご案内いたします」

 ぽかんと圧倒されていた自分を叱責して、かろうじて「すみません、お願いします」とだけ返事をする。なんかもう、私の知らない世界だ。モクバくんは、こんな世界で頑張っているのだろうか。……瀬人くんも、こんな世界で生きているのだろうか。忘れられてしまうのは、当然だったのかもしれないと一瞬思ってしまって、すこし泣きたくなった。
 そんな表情をモクバくんに見られるわけにはいかない、と、頭を振って思考を塗りつぶす。私のその行動に驚いたのか、「どうかしましたか」と磯野さんが尋ねてきた。

「ちょっとびっくりしちゃっただけです、すみません」

 苦笑交じりに返答する。私の返事は意外だったのか、暫しの沈黙がおりる。

「ご安心ください。そう構えなくても大丈夫ですよ」
「そう、ですか?」
「はい、そう形式ばったことはありません。さぁ、どうぞ」
「……ありがとうございます、磯野さん」

 できるだけ誠実に、感謝の気持ちが伝わるように声に出して礼をした。磯野さんはまた苦笑して、モクバ様がお待ちですよ、とだけ返事をくれた。いい人だなぁ。ありがたい。





write:2008/11/27 up:2009/01/02