揺れる波間、かたる静寂 04

 屋敷に入ると、すぐに待ちくたびれたような表情を浮かべたモクバくんに飛びつかれた。またふらつきそうになるのを、たたらを踏んで耐える。床に絨毯が敷かれていて、転んでもそう痛くはないかもしれないけれど、やっぱり転ぶのは嫌だ。

「待ってたぜぃ、!」
「うん、お呼ばれされました。また会おうって話してたけど、あんなお迎えが来るなんて想像もしてなかったからびっくりしちゃった」
「本当はオレが迎えに行きたかったんだけど、ちょっと用事があってさ。びっくりした?」
「そりゃ、びっくりするよ。私、あんな車乗ったのはじめてだもん」

 してやったり、といった風ににこにこと笑うモクバくんに案内されるまま、お屋敷の中を歩く。いまいち道がおぼえられそうにないけれど、まあ、きっと帰りにも案内してもらえるはずだから、大丈夫。たぶん。覚えてない、といえばきっと案内してもらえるだろう。
 モクバくんに促され、華奢な細工の白椅子に腰掛ける。モクバくんが私の向かいに腰掛けると、そのタイミングで黒いワンピースに白いエプロンをした女の人が紅茶とお菓子を持ってきてくれた。さすがプロだなぁ、と感心しながら「ありがとうございます」と礼をする。女性はにこりと微笑んで一礼して、「何かありましたらお呼び下さい」とだけ言い残して部屋を後にした。
 ベリー類がたくさん乗ったフルーツタルトに、馨しい香りのする紅茶。

「うちのシェフのタルトは絶品なんだぜぃ!」
「そうなんだ。じゃ、早速いただきます」

 にこにこと、ほら早く! と急かしてくるモクバくんのお言葉に甘えて、フルーツタルトを一口頂く。あ、単なるフルーツタルトかと思ってたけどフィリングにチーズが使われてるんだ! 何のチーズだろ、マスカルポーネかな。もうすごい美味しい……!

「おいしい……!」
「だろ!? これオレも好きなんだ」

 自分の好きなものを私も好きなのが嬉しいのか、モクバくんはさっきまでよりも楽しそうな表情でタルトを口に運んだ。
 紅茶の香りとタルトの甘さで、はじめての場所で身構えていた心がすこし解れたような気がした。私はもう一口タルトを口に運ぶ。……もしかして、モクバくんはそれを感じ取ってたのかな。確証はないけれど、そう思った。
 お茶を飲みながら、世間話をして時間は過ぎる。穏やかに時間が流れる中、タルトが残り一口になったところで、モクバくんは唐突に神妙な顔つきになった。

「今日はさ、にお願いがあって来てもらったんだ」
「おねがい?」

 緩やかな曲線を描くティーカップをソーサーに戻して、モクバくんを見つめた。すこし不安げな、助けを求めるような目にも見える。何かに困ったことでもあるのだろうか。

「うん、兄サマのことなんだけど」
「……瀬人くんの?」

 少しだけ声が上ずった。
 私もたいがい女々しいな、と自分でも思う。あの日瀬人くんに言われたことを全て信じていたわけではないつもりだったけれど、どこかで「会え」て、互いにそのことを「覚え」ていて、きちんと預かりものを「返せ」るものだと思っていたのだろう。再会できただけでも奇跡みたいなものなのに、それ以上を望んでしまっていたのだ。

「兄サマさ、昔のこと、全然覚えてないんだ。のことも、覚えてなかったし」
「……うん。知ってる。この間、学校で会ったから……」
「会ったの!?」
「会ったよ、学校で。先々週くらいかな。話しかけたら「貴様は誰だ」って切り捨てられちゃったけど」

 笑い話じみた話し方でいったつもりだったけれど、モクバくんは少し悲しげな顔をした。……失敗しちゃったかな。
 うん、正直、この言い方で私も傷ついたから、失敗したか失敗しなかったかで言ったら、失敗も失敗、大失敗のレベル。自分で言って自分で心をずたずたにしてちゃ、救いようがない。

「あのさ、今の兄サマって、笑わないんだ。いや、笑いはするんだけど、デュエルしてる時の高笑いとか、商談先との愛想笑いとか、そういう笑い方だけで……」

 モクバくんは神妙な顔つきのまま、つらつらと説明をしてくれた。途中で相槌を打ちながら、モクバくんの話を脳内で総合する。つまるところ、モクバくんは、昔のような笑い方をしなくなった海馬くんにあの頃の笑顔を思い出させたい、ということだ。どうすればできるのかはわからないけれど、海馬くんの中から失われてしまった『昔の出来事』を蘇らせればもしかしたら、とモクバくんは考えているらしい。そこで白羽の矢が立ったのが私。昔仲が良かった私と何度か会えばその頃のことを思い出すかもしれないという、希望的観測だ。

「こんなこと頼めるのしかいないんだ。……無理か?」

 うん、私も思い出してほしいと思ってる。モクバくんと最終的に目指す目的は違えど、途中経過は同じだ。――ただ、あの時の言葉を思い出してほしいとは思っていない。さすがに何年も前の児戯、子供の言葉遊びレベルのことだから信ずるには値しない。それをずっと覚えていた私だって、その言葉通り彼だけを想っていたわけではないし。私が思い出してほしいのは、施設にいた頃、私とよく遊んでいたという事実。
 そして、瀬人くんが私にお母さんの形見を預けていた、ということ。
 これは、本当は私が持っていていいものじゃない。モクバくんか瀬人くん、どちらかの手元になければならないものなのだ。喪われた母への追憶。私はそれを、今もずっと、大切に預かっている。いつ何時会っても返せるように、と、御伽噺じみた微かな確率に賭けて毎日身に付けて。

「ううん。無理じゃないよ。私も、忘れられっぱなしって、寂しいし」
「さ、サンキュー、……!」

 ……モクバくんに返しても良い、瀬人くんのお母さんはモクバくんのお母さんでもあるんだから。けれど、モクバくんは私が形見を預かっているということを知らない。だったら駄目だ。何も覚えていない海馬くんに押し付けるようにして返しても駄目だ。私が形見を預かっていたなんて話、信じてくれるはずがない。
 瀬人くんに思い出してほしい懐かしいあの日の記憶を、少し思い出す。

 あの頃の全てを忘れてしまった瀬人くんに対して、どうしてか置いて行かれたような気分になった。






write:2008/11/28 up:2009/01/07