揺れる波間、かたる静寂 07
お屋敷の前の大きな門で、インターフォンに向かって「です」と言うのにも、そろそろ慣れてきた。まだ緊張はするけれど、がちがちになるってほどでもない。適度な緊張感、とも言えばいいんだろうか。インターフォンの向こう側で、いつものメイドさんが「今門をお開け致します」と私に告げる。お願いします、と頭を下げるのとほぼ同時に、門が自動で開く。いつ見てもこれはハイテクだよなぁ。
いつものように歩き出す。そしていつものように、五歩歩いたところで門が自動で閉まる。こういうオートマティックって、電気がなかったら動かないと思うんだけど、停電になったりしたらどうするんだろう。非常電源とかあるのかな。
門から玄関までがこんなに長いのは不便じゃないんだろうか。いつも車で出るから関係ないのかな。いつもと同じくらいのスピードで歩く。前に来た時になんとなく走ってみたら、ものすごく疲れ果てて遊ぶどころじゃなくなってしまったという過去があるし、慣れないことはしないことにした。
玄関まで辿り着くと、ここに来るたび顔を合わせるメイドさん(今度名前聞いてみようかな)が、「ようこそ様。モクバ様がお待ちです」と微笑んで屋敷の中に招き入れてくれた。
ここに来ることには慣れたけど、こうやって年上の人に様付けされるのは慣れないなぁ。……きっと、これから何回来たとしても、これには慣れないだろうけど。
「よ! 。いらっしゃい」
私の目の前にいるモクバくんは、いつもとおんなじ、人懐っこい笑顔を浮かべている。
……浮かべて、いるのだけど。
私は、その表情に、何か既視感と違和感のようなものを感じて、断りもなしに、そっとモクバくんの額に手をあてた。
「あっ、!?」
「うーん……子供って平熱高いって聞くし、モクバくんの平熱も知らないから何とも言えないけど……」
そこで言葉を一端切って、額から手を離し、モクバくんの手を握り締める。そこにいつもの温かい指先はなく、冷え切った冷たい手があった。思わず眉を顰めてしまいそうになる。
「……モクバくん、具合悪いでしょ?」
悪いの? と疑問系ではなく、確定した言葉で問いかける。モクバくんは笑って誤魔化そうとしていたけれど、私の真剣な目を見ているとそうもできなくなったのか、眉を下げて、「ちょっとだけ……」と消え入りそうな声で呟いた。
「もう、具合悪いならちゃんと言って、寝てなきゃ駄目だよ」
私と遊ぶとか、言語道断です! と言うと、モクバくんはしゅんとした顔をする。……そういう顔されると、なんか私が悪いことしてるみたいな気分になるなぁ。
「私がいたら休めないでしょ? 私、今日は帰るから。モクバくんはゆっくり休んで……」
「いやだ!」
「え?」
モクバくんが泣きそうな表情で、私を見上げてきた。どうして、そんな顔するの? 私の制服の袖をきゅっと掴んで、モクバくんは泣きそうな表情のままで、私に縋りつく。
「帰んないで、。お願いだから、帰んないで、一人はいやなんだ、なぁ――」
モクバくんがそこまで言った途端、ぷつりと糸が切れたように、モクバくんは私のほうに倒れこんだ。慌てて抱きとめたモクバくんの体は、びっくりするくらい熱かった。
……なんでこの子はこんな無理するの!?
私は熱くて頼りないモクバくんの体を抱きしめながら、腕を伸ばしてメイドさんを呼ぶベルを乱暴に鳴らした。優しくしよう、とか、そんな気を使える余裕なんかない。誰か、誰でも良いから、早く来て……!
私の乱暴なベルに、尋常ではない何かを感じたのか、すぐさまメイドさんが二人駆けつけてくれた。気が動転して支離滅裂なことを口走ったかもしれないが、私と私の腕の中に倒れこんだモクバくんを見て彼女たちは事情を察してくれたらしく、てきぱきとモクバくんを寝間着に着替えさせ、ベッドに寝かせた。神がかりなスピーディさ、さすがプロ。
いつの間に呼んだのか、お医者さんが意識のないモクバくんを診察して、ただの風邪だと診断を下すまで、私ははらはらとその様子を遠くから見ているだけしかできなかった。
「様。お帰りになられるのでしたら、お車をご用意いたしますが」
「あ、迷惑でなければ、もうちょっといたいんですけど、大丈夫ですか? ……モクバくん、一人は嫌だって言ってたんで……」
「構いません。畏まりました。ベッドサイドに、椅子を用意いたします」
「あ、すみません。助かります」
メイドさんはてきぱきと、モクバくんの眠るベッドサイドにロッキングチェアをセッティングすると、私に向かって一礼した。
「……様」
「はい?」
「三時間ほどしましたら、一度ご様子をうかがいに参ります。モクバ様を、よろしくお願いいたします」
そう言って、私に背を向けると、彼女は立ち去っていった。私はそれをぼんやりと見送って、眠るモクバくんに視線を落とした。
せっかく準備してもらったロッキングチェアだけれど、それには腰掛けずに、広いベッドの際に腰掛けて、そっとモクバくんの手を取った。さっき触った時よりは少し生ぬるいけれど、首筋の熱っぽさとは裏腹に、まだ熱いとは言えない。
「……一人はいや、か」
風邪を引いたときは人肌恋しくなって、誰かが近くにいないと不安になるのはわかる。私も、風邪を引いている時は、目が覚めて誰もいないと少し悲しくなったりする。
ふと、先日聞いた、瀬人くんとモクバくんの苛烈な過去を思い出した。考えながら、モクバくんの汗ばんだ額に手を乗せて、頭を軽く撫でる。
「無理しちゃだめだよ。心配するから。私も……瀬人くんも」
二人を引き取った海馬剛三郎氏は、瀬人くんには虐待じみた教育を施し、しかしモクバくんの教育に関しては使用人任せ、という極端なことをしたらしい。瀬人くんとモクバくんは自由に顔を合わせることすら出来なかったくらいなんだから、孤独に人一倍敏感なのも仕方ないかもしれない。
いったんモクバくんの手を包んでいた手を放して、足元に置いていたカバンの中から買ってばかりで半分も読んでいなかった文庫本を取り出した。ぱらぱらと栞を挟んだページを開いてから、片手でモクバくんの手を包む。
「ゆっくり休んでね。おやすみなさい」
聞こえないくらい小さな声でそう囁いて。私は本の世界に視線を滑らせた。
write:2008/12/04 up:2009/01/31