揺れる波間、かたる静寂 10

「ねぇ杏子、ちょっとごめん、いま平気?」

 武藤くんの席の前にいた杏子の制服をくいっと引っ張って呼びかける。なんか邪魔するみたいで悪いなぁとも思ったんだけど……ごめんね。

「ん? なあに、

 苦笑交じりに、杏子が私のほうを振り返る。本当に大丈夫かな、と、ちらりと武藤くんの方をうかがってみると、杏子のノートを広げて必死に数字を書き写しているところだった。ああ、そういえば今日はここの列が当たる日だったっけ。
 じゃあ大丈夫か、と考えながら、手に持っていたプリントの入った封筒を杏子に見せて、私は用件を告げた。

「先生の使いっ走りで。城之内くんに渡してくれって言われたんだけど、いないから。杏子、知らない?」
「ああ……そういえば居ないわね、どこ行ったのかしら。遊戯、知ってる?」
「えっ、うーん……さっきの古典、サボってたから、屋上、かなぁ。今日はバイトがいつもより早いって言ってたから、もしかしたら帰っちゃったかも」

 杏子に突然話を振られて、武藤くんは困ったように顔を上げて、そう小さく呟いた。その言葉を受けて、「城之内のやつ……」と杏子は額に手をあてて呆れたように溜息をついた。なんか私も溜息吐きたい気分だよ……。
 私と杏子の様子を見た武藤くんは困ったように笑ってから、またノートと睨みあいを開始した。ざりざりとノートに解が書かれていく。
 プリントどうしよう……。とプリントの入った茶封筒を見つめていると、杏子がひょいと私の手の中から封筒を取って、武藤くんの机の上にぱさりと置いた。

と城之内ってそんなに話もしたことないでしょ? 遊戯に預けたほうが気楽よ」
「まあ確かにそうだけど。えーと、武藤くん、お願いしてもいい?」
「うん。いいよ、さん」
「ありがとう、お願いするね」

 ほわほわと優しい笑顔の武藤くんを見てると癒される気分だ。この優しいまなざしが、デュエル中になると人が変わったんじゃないかってくらい鋭くなるんだから、本当すごいと思う。あれかな、ドライバーがハンドル握ったら人が変わるってやつと同じなのかな。本当に居るんだね、そういう人。
 杏子の方をちらりと見ると、必死になって数学のノートを写している武藤くんを優しいまなざしで見つめていた。……うう、やっぱり邪魔しちゃったかな。ごちそうさまでした。心の中で呟いたのとほぼ同時に、がらりと教室の扉が開いた。音につられてそっちに視線を向けると、スーツでもあのコートでもなく、制服に身を包んだ海馬くんがいて、思わず目を丸くしてしまった。
 目を瞑ってから、もう一度そちらを見てみる。……見間違いじゃない、海馬くん本人だ。

「海馬くんだわ、珍しいわね」
「えっ、海馬くん来たの?」
「……写してからにしなさいね」
「あ、もう終わったよ! ありがとう、杏子」

 杏子と武藤くんの会話が、遠い。私はぼんやりと海馬くんのほうを見つめていた。がたがたと音を立てて立ち上がった武藤くんが、教室の一番後ろで廊下側の海馬くんの席へと小走りで駆け寄っていく。

? どうしたのよ」
「え……あ、なんでもないよ」
「……そう? なら良いんだけど」

 ぼんやりとしていた私を不審に思ったのか、杏子は私の顔を覗き込んだ。慌てて首を振って誤魔化すと、杏子は不思議そうに首をかしげた。けれど特にそれには言及せず、杏子は武藤くんの机の上のノートを拾い上げて、「そろそろチャイム鳴っちゃうし、席に戻りましょ」と笑った。その言葉にこくんと頷いて、席に戻る。
 その時にそっと海馬くんのほうを覗いてみたら、海馬くんは武藤くんの言葉を軽く流しながら、机上にノートPCを広げていた。……今日はただの出席日数稼ぎかぁ。いやまあ、海馬くんが学校に来るのはいつも単位目的なんだけど。

「そういえば先週の金曜日の約束、どうしよっか」
「今日私あいてるよ。お財布も余裕ありだし。杏子は? あいてる?」

 私がそういうと、杏子は「もちろん!」と言って、にっこり笑った。私も久しぶりに行くし、楽しみだなぁ。ぼんやり考えながら数学の教科書とノートを取り出していると、すっと机の上に影ができた。急に天気が翳ったのかと思った途端、声をかけられる。


「え……? か、海馬くん!?」

 学校で海馬くんに話しかけられるとは思っていなくて、びっくりしてしまう。ぼんやりと海馬くんの顔を見つめていると、海馬くんはゆっくりと口を開いた。

「先週はモクバが世話になったな」
「え? ……あ、モクバくんの風邪のこと? 私は何もしてないよ」
「ふん、オレが帰るまでモクバにずっと付き添っていたくせに何を言うか」

 海馬くんが少し不機嫌そうに呟く。……もしかして、モクバくんの具合が悪いってことに気付けなかったのが嫌だったのかな。私が先に気付いたっていうのが、悔しいのかも。モクバくんのこと、本当に大切にしてるもんね。

「モクバくん、治ったの?」
「ああ。ほとんど完治に近いな。ただ、今日は大事を取って休ませた。お前によろしくと言っていたぞ」
「そっか。良かった」

 ほう、と安心の息を吐いた。やっぱりモクバくんはいつもみたいに元気な笑顔でにこにこ笑っている方がいい。……風邪引いていたほうがいい人なんていないけど、それでもやっぱり、モクバくんには、元気そうな笑顔が似合うから。

「……貴様、また来るのか」
「え?」
「屋敷に、だ」
「うん、モクバくんに呼ばれたら。あ、でも、海馬くんにとって邪魔なら行かない……よ?」

 突然の言葉に少し不安になりながらも返事をした。と、ふっと海馬くんは目を細めて口を開く。

「……ふん。たまには歓迎してやろう」

 それだけ言い残して、海馬くんは席に戻っていった。私はぽかんとのその背中を見つめていた。じわじわと、胸が熱くなる気がした。

「モクバくん風邪引いてたの? 大変ね」
「うん、金曜日に遊びに行ったとき、風邪で倒れちゃったの」

 季節外れの風邪だけど長引かなくてよかったわね、と杏子はくすくす笑う。
 本当、長引かなくてよかったなあ。普通の風邪と聞いてはいたけれど、普通の風邪とはいえ、長引くときは長引くし。

「……で? 、妙に嬉しそうだけど何かあったの?」
「う、嬉しそう? 私そんなオーラ出してた?」

 あまりそんな自覚はなくて、慌てて杏子に問いかける。私をまじまじと見つめていた杏子は意外そうに目を瞬かせると、はあ、あからさまに溜息をついた。

「自覚はあんまりないのね。……『そうかも』とは思ったけど」
「えーと。ごめん、話が見えない、んだけど」
「いいわよ、気にしなくて。――まあ、近いうちにわかると思うけれどね」

 はそこまで鈍くないはずだし、と、杏子がまたくすくす笑う。
 いまいち意図が掴めなくて、杏子の顔を窺ってみたけれど、杏子は何もいわずに笑うだけだった。








write:2008/12/31 up:2009/02/11