揺れる波間、かたる静寂 15
モクバくんの手引きにより、私が海馬邸に出入りすることとなって、もう何日経ったろうか。日数なんてもう覚えていないし、屋敷で何度瀬人くんに会えたかも覚えてなんてない。モクバくんのお屋敷には週に1回くらいのペースで遊びに行くけれど、必ず海馬くんに会えるとも限った話ではないから、やっぱり回数は思い出せない。
海馬くんの私に対する態度は軟化した、と思う。屋敷では邪険に扱われないし、学校でも話しかければ返事してくれるし。けれど、私と知り合いだったということは思い出す気配もない。私に何を言ったか、何を預けたか、思い出す様子もない。少しだけ泣きたくなる。
――好きだって気付いてから。いや、むしろ、「瀬人くん」だけじゃなくて「海馬くん」も好きになってしまってから、私はなんだか弱くなってしまった気がする。モクバくんに協力するって決めたときは、ただ預かりものを返すために思い出してもらおうと思っていたのに、今じゃそれだけじゃ足りないとすら思うんだから。何年も前の児戯、子供の言葉遊びレベルのことだってわかってるのに縋りつきたくなる。今は違う人を想っているだろうに、昔のことも思い出してほしいと思ってしまう。
沈み込んだ気分を塗りつぶしながら、指先で黒のビショップを動かす。
施設にいた頃、瀬人くんに遊びかたを教えてもらったときのことだって私は今でも覚えてるのに、と、湿っぽい気分になるのを、紅茶を飲むことでごまかした。
「……えい、チェックだぜぃ、!」
「うそっ、あ、ホントだぁ。悪手だったな……とりあえず避難」
考え事をしながらチェスは指すものじゃなかった。ボードが考えていたのとは違う局面になっている。少し後悔しながら、とりあえずキングを避難させた。
にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべている割に、モクバくんはえげつない攻め方をする。そういえば瀬人くんもそういうプレイを好んでいたような気がする。あの頃はそういう風には感じなかったけれど、今思い出すとそうとしか思えない。……血は争えないってやつなんだろうか。
「考え事してた?」
「うん、ちょっとだけ。わかっちゃう?」
「何考えてるかまではわかんないけど……兄サマのこととか?」
「……すごい、わかっちゃうんだ」
「でも、内容まではわかんない。何考えてたんだ?」
心配そうに首を傾げて私の目をまっすぐ見つめるモクバくん。「大したことじゃないんだけどね」と前置きをして、私は口を開いた。
「昔、チェスのやり方を瀬人くんに教えてもらったときのこと、思い出してたの。そのときも、モクバくんと指したでしょ」
確かあの時は、私とモクバくんが向かい合って座り、今ティーポットがある辺りに瀬人くんが座っていた気がする。「それを指しちゃ相手のクイーンにキングを取られるから」なんて、一手一手優しく教えてくれた。……指し始めの頃は。
「そんなこともあったな! 兄サマ、意外と鬼コーチだったよな」
「思いっきりしごかれちゃったよね。まあ、おかげで今こうやって遊べるんだけど」
そう、始めのほうは優しかったんだけど、瀬人くんもだんだん熱が入ってきたのか、指導が厳しくなっていって、指導が終わる頃には、私もモクバくんも瀬人くん満足するくらいのプレイングができるようになった。
「二人は筋がいいな」って褒めてくれたの、すごく嬉かったなぁ。
「まあな! でもオレ、普通のチェスやるのは久し振りかも。兄サマも最近はやってないんじゃないかな……えい」
「あ、そうくるかぁ。んーと、じゃあこうで。……そうなんだ。やっぱりお仕事忙しい感じ?」
「今はそう忙しい時期じゃないから大丈夫だけどさ。クリスマスシーズン前は地獄だぜぃ」
言葉の応報とともに、駒を指す。本当はもっと一手を熟考すべきなんだろうけれど、今は勝負がメインなんじゃなくて、ゲームをするということがメインだからそう問題もない。
「お疲れ様。こうやってちゃんと息抜きするんだよ?」
「ん、さんきゅ。でも、オレより兄サマのほうが息抜きしないと駄目だと思うぜぃ。からも言ってやってよ」
モクバくんが少しぶうたれたような声を上げる。ちょっと苦笑しながら返事をする。
「私が言ってもそう効果なさそうだけどね。……チェック」
「う、うわっマジかよ!?」
ちょっと待って、いい手考えるから、とモクバくんはボードを見つめながらぶつぶつとシミュレーションを開始した。a2、いや違う、と呟くモクバくんの脳内では、きっといくつもの戦況が描かれているのだろう。
真剣なモクバくんの顔を見つめていると、キィと扉の開く音がした。メイドさんが来たのかな、と顔をそちらに向けると、ブルーのワイシャツに濃いブルーのネクタイを締め、白いジャケットを腕にかけた海馬くんと目が合った。今日は早いんだね、まだ7時になってないよ。
「……? ああ、またモクバが呼んだのか」
「兄サマ! お帰りなさい!」
「海馬くん、おかえりなさい。お邪魔してます」
モクバくんの声に喜色がにじむ。驚いたような表情を浮かべていた海馬くんに、ひらひらと手を振る。と、海馬くんは少し呆れたように肩を竦めて笑った。
「ああ、ただいま」
たまにしか見れない、海馬くんの微笑。私、この表情を見たときから、海馬くんに囚われてたのかも。……なんて、ね。
write:2008/11/30 up:2009/4/12