揺れる波間、かたる静寂 16
つかつか、と、海馬くんが私たちが向かい合っているテーブルに近寄ってきて、ボードの上に繰り広げられているゲームを覗き込んだ。少し気だるげな表情で(やっぱり疲れてる、のかな)ゲームを見つめていたかと思うと、ふっと口を開いた。
「今はモクバのターンか?」
「え、うん。そうだよ」
そう返すと、海馬くんは「ほう」と感心したように息を吐く。そして、しばらくチェスボードを見ていたかと思うと、ネクタイをしゅるりと解きながら、その長い指で盤上の白い駒を一つ動かしてしまった。
「かっ、海馬くん!?」
「兄サマ?」
唐突な出来事に驚いて、思わず海馬くんのほうを見つめる。私とモクバくんはあんまりに驚いた顔をしていたのだろう。私たち二人分の視線が同時に海馬くんに向いた瞬間、彼は一瞬だけ面食らったような表情を浮かべた。そしてしばしの沈黙の末、海馬くんがにやりと笑ったので、思わず私もたじろいでしまった。
「チェックメイトだ、」
「え?」
虚をつかれて、思わずまたばく。
海馬くんは解いたネクタイをティーポットの横において、チェスボードの端を指先でとんとんと叩いた。
「三手先でチェック、その場は凌げても六手先でチェックメイトだ。見てみろ」
海馬くんの言うとおりに、チェスボードに視線を落として駒たちを脳内で動かす。……あ、駄目だどう動いても負けちゃう……! いくつかパターンを変えてシミュレートしてみても結果はおんなじ。あーもう。負けました。
もう負けるってわかっていてこれ以上やっても仕方がない。投了の意を示すためにキングを倒す。
「負けましたー……海馬くんの意地悪」
「ふん。このような甘い攻め方をするほうが悪い」
もっと積極的に攻めればよかろう、と言って、海馬くんは私が取った白の駒のうちから、ルークをひとつ拾い上げた。大きな手の中のルークを、海馬くんはなぞるようにもてあそぶ。
その仕草が、さっきモクバくんと話した、チェスを教えてくれた時の瀬人くんとまるきりおんなじで、私は思わずモクバくんと目を合わせてしまった。モクバくんも同じことを考えていたのだろう、目が合った瞬間、二人でくすりと吹き出してしまう。
「……どうした?」
不思議そうに首を傾げる海馬くん。「海馬くん」にはわかんないだろうけどね、懐かしいんだよ。ね? モクバくん。
「なんでもないよ、兄サマ! な、」
「うん、モクバくんの言うとおり、なんでもないよ、……海馬くん」
思わず。昔を思い出した所為で下の名前を呼びそうになってしまったのを、ぐっと堪えた。危ない、危ない。
まだ訝る海馬くんを誤魔化すように、モクバくんはチェスの駒をケースに片付け始めた。私も自陣にある駒をケースに一つずつ入れていく。
「他にもとやりたいゲームがあるんだぜぃ」
「そうなの? どんなゲーム?」
「へへっ、それはやる時までのお楽しみ!」
そう笑ったあと、モクバくんは「はい、兄サマ!」と海馬くんに駒を入れるように促した。ああ、と海馬くんは幾分柔らかい口調で返して、ルークをケースの中に眠らせた。
ぱたん、とケースの蓋が閉まる。
「じゃあ、さっき言ってたゲーム、取ってくるな!」
私の返事を待たず、モクバくんは椅子から飛ぶように降りて、部屋から飛び出していった。リビングルームに取り残される、私と海馬くん。モクバくんがいないなら自室に帰っちゃうかな、と思って彼のほうをこっそり窺うと、ふっと短く苦笑して、ソファに腰を下ろして厚い本をひらき始めた。
一緒の部屋にいれるのか、と、嬉しくなる。会話はなくても、一緒にいられるだけでも嬉しいものは嬉しい。海馬くんに私の存在を許容されていると思うと、ほっと安心してしまう。
海馬くんが本のページを繰る音が、靜かな部屋に吸い込まれていた。
write:2008/12/01 up:2009/04/25