揺れる波間、かたる静寂 17

「随分古いものだな」

 モクバくん遅いなぁ、もしかして持ってくるゲームって重いものなのかなぁ、と時計を見上げて考えていると、唐突に海馬くんがそう言った。何を示しているのかがわからず、首をかしげて「何が?」と問いかける。視線をそちらに向けると、先ほどまでソファに身を任せて厚い本をひらいていた海馬くんが、いつものような青い目でまっすぐ私を見つめていた。
 海馬くんは、人と話す時に相手の目をまっすぐ見つめる。それは幼い頃と変わらない癖の一つで、そういう小さなことを見つけるたびに、私は少しだけ嬉しくなる。

「貴様のつけているバレッタ。良いものだが――随分古いのだな」

 ――表情が、凍りついた。
 他意はない、嫌味もない、わかる。海馬くんの表情が何時もどおりの平淡なまま、冷笑を浮かべているわけではないから。わかる、わかるの。わかるけれど、駄目だった。耐えられない。苦しいよ。
 どうして、そんなこと、言うの? あなたにそんなことを言われるとは、思ってなかったよ。
 そうだよ、これは古いものだよ。だって、あなたのお母さんが使っていたものだもん。ねぇどうして。どうしてそんなこと言うの、海馬くん。これを私に渡したのは、君だったのに。
 ぐるぐると回る思考が重い。何か返事をしないと、ほら、海馬くんに不審に思われちゃう、何か、何か言わないと……!

「……?」

 ああほら、海馬くんの声が、何か尋ねてきてる、何か返事をしないと、駄目なのに、どうしよう。言葉が浮かばない。まるで言葉を失って鉛を飲み込んだかのようで、咽喉の奥からじくじくとした疼痛がする。
 視界が滲んでぼやける。海馬くんの顔が、見えない。記憶の向こうの瀬人くんの顔にも、フィルターが掛かってしまったような感覚がした。
 ねえどうして忘れちゃったの。私に預けたものも思い出せないの? どうして、と詰め寄っても何も変わらない。変わらないけれど尋ねたくてしょうがない。
 足音が、聞こえる。絨毯に呑まれて響かない静かな足音が、私に迫ってくる。追い詰める。

「……何故泣く」

 私に影がかかる。その言葉で、私は自分が泣いていることに気づいた。ぽろぽろと、止まらず溢れ続ける涙。

「あ、ごめ、なんでも、ない、よ」

 慌てて繕って涙を拭うけれど、拭ったそばから涙がこぼれてしまって意味を成さない。眼にごみが入っちゃって、と誤魔化そうにも上手く声が出ない。
 満水のダムが貯まった水をすべて吐き出すみたいに、今までこらえた涙が全部出ているかのような気がした。鈍い痛みがする。ずきずき、ずきずき。
 どうして忘れちゃったの、どうしてそんなこと聞くの、言葉が私の中でぐるぐると渦巻いている。

「遅くなってごめん、これ面白いんだぜぃ……!? どうしたの、どっか痛いの!?」

 帰って来たのか、モクバくんの驚いたような声が近付いてきた。駆け寄ってくる音、背中を撫でる小さな暖かい手。その手の感触が、昔私にバレッタを差し出したときの瀬人くんの手の感触に似ていて、もう泣いているのにもっと泣きたくなるくらい苦しくなった。

「大丈夫? ……具合悪いのか? 何かあった?」

 モクバくんの心配げな言葉にも、首を横に振ることしかできない。ぼろぼろと、壊れたみたいに止まらない涙。このまま枯れてしまえれば良いのに、と、私らしくないことを考えた。

「……今日はもう帰らせた方が良いだろう。車を用意させる」
、今、車呼ぶから。無理すんなよ」

 涙という感情の奔流に呑まれながら、かすかに頷いた。そのまま、磯野さんに案内されるまま車に乗り込んで、私は家へと帰った。
 これ以上何も覚えてない海馬くんに会うのは、限界かもしれない。……いや、きっと、限界なんだ。別の人だと思えればいいのに、決して思えそうにない。
 そっと指先を伸ばして、バレッタを取ってゆるゆると握り締めた。冷えた感触が、胸に突き刺さるような気がした。すとん、と、ベッドに腰掛ける。沈み込む気分のまま、後ろに倒れこんだ。ぼんやりと、目を瞑って考える。
 海馬くんが思い出してから返そうと思っていたけれど、これ以上は、私が限界だった。まだ時間が短いだけで、もっと時間をかければ思い出すのかもしれない。けれど、これ以上、何も覚えていない瀬人くん――海馬くんと会うのは、無理だ。混ざる。混濁する。もうあの日の瀬人くんとは別人だと思うように心掛けていたけれど、やっぱり無理だ。海馬くんは瀬人くんで、根本的には全然変わってないって、行動の一端でわかってしまうから。
 右手の中のバレッタにかける力を、少しだけ強くする。……次にお屋敷に行ったら。その時は、例え何があってもこれを返そう。十中八九受け取ってはもらえないだろうと思う。あなたのお母さんの形見なんだよ、と言ったとしても、信じてなんてくれないだろう。幼い頃私と知り合いだったということすら覚えてないんだから。だけど、返してしまおう。むりに押し付けてでも返そう。これを返せば、私と瀬人くんを繋ぐものは、記憶だけだ。その記憶だって、きっと忘れようとすれば忘却の彼方になる。会えなくなるのは悲しいけれど、それだって忘れられるはずだ。
 そうすれば、これ以上苦しまなくて済む。
 これ以上、泣きたくならなくて済む。
 ……これ以上、海馬くんのこと、好きにならなくて済む。だから大丈夫。大丈夫なんだから。
 自分に言い聞かせながら、足をまげて、ベッドの上で胎児のように横になる。カーテンの隙間から月の光が差し込んで、青いバレッタを照らし出していた。
 目を瞑って、バレッタに口付ける。私の体温が移って、すこしだけなまぬるい。

「……あの時は、「またね」だったよね、瀬人くん」

 目じりから涙がすべり落ちていく。あんなに泣いてしまったのに、まだ出ることに内心苦笑する。

「だから、次は、海馬くんと「さよなら」だね」

 そう呟いて、もう一度、バレッタに口付けた。










write:2008/11/21 up:2009/05/07