揺れる波間、かたる静寂 18

「この間はびっくりさせたよね? 突然泣いたりして、ごめんね。今日で私が来るのは最後にするから」

 自分を騙すために、そう微笑みかけた。……何度か会えば思い出してくれるかと思ったけど、無理だったね、海馬くん。君にとって、私と過ごした施設時代ってそう大切なものじゃなかったのかな、と思うと、無性に泣きたくなる。
 自分のできる最高範囲での作り笑いを貼り付け、震えそうになる声を叱責して、私はまっすぐ声を出す。

「……最後?」
「うん。今日が最後。私、邪魔だったでしょう?」

 自分で口にしたけれど返事を聞きたくなくて、私はついと視線を外した。海馬くんの口が動くのが空気の振動になって伝わる。声になって発される前に、私は言葉を放つ。

「だから、今日でさよならなの」

 そう言葉に出した瞬間、――カラン、と、乾いた音がした。
 あの日から肌身離さず付けていたバレッタの飾りが床に落ち、はねて棚の下にすべりこんでいくのを、私は動くことも声を出すことも出来ずに、見つめていた。
 それは、まるでタイミングでも計ったのか、と思うくらいだった。私が「さよなら」を告げたその瞬間。いつ、どう返せばいいだろうと考えあぐねていたその瞬間で。誰かが、今がお別れの時間なんだと囁いているように感じられた。
 ゆったりと目を瞑って、すぐに開く。棚のほうを見つめていた視線を海馬くんに戻して、まっすぐに彼の碧眼を見つめた。

「今、人を呼ぶ」

 瀬人くんがアパー・テンを呼ぶベルに手を伸ばそうとするのを、「いいよ」やんわりと制する。

「今呼ばなくて良いよ。もういいから。……そろそろ元の持ち主のところに返さなきゃって思ってたし」

 元の持ち主? と訝しげな表情を浮かべる海馬くんに微笑みかけて、まだ頭についていたバレッタの土台を取り外す。留めていた髪がはらりと重力にしたがって落ちてくるのを目の端で捉えながら、金具をデスクの上に置いた。カツン、と、短く高い音が耳に走った。
 私は、海馬くんに思い出してほしかったのだ。あの時好きだと言ってくれたこととか、そんなことではなくて、私におかあさんの形見を預けていたという事実を、思い出してほしかった。この屋敷での苛烈な生活の中で流されてしまった、母親という記憶を、思い出してほしかった。あたたかい記憶を、一つでも多く取り戻してほしかった。
 けれどそれも叶うことはなかった。悲しいけれど、私にはもうどうすることもできないのだ。私たちを繋いでいた形あるものもとうとう壊れてしまって、綺麗な形ではないにしろ、元の持ち主の手元へと戻っていった。もう、私と瀬人くんを繋ぐものは記憶しかない。けれど、その記憶すら、もう海馬くんの中にはない。
 昨日何度も脳内で繰り返した言葉を、脳裏にもう一度描く。大丈夫、言える。終わり損ねたあの時は泣いてしまったから、本当の最後くらいは笑顔で終わらせたい。
 コンマを打っただけで終わっていなかった、私と「瀬人くん」の曖昧にピリオドを打つ。一世一代の名演技。口元に笑顔を乗せて、さあ欺け騙しきれ!
 これは、失敗したお別れの、焼き直しなのだ。

「――好きだよ、『瀬人くん』。でも、「またね」じゃなくて、『さよなら』なの」

 瀬人くん――海馬くんの青い目が揺れる。今の私のこと、少しは大切に思ってくれた? そうだと、嬉しいな。でもね、もう、終わりなの。

「だから、さよなら、海馬くん」



 あのあと、どうやって家に帰ったのかは覚えていない。磯野さんだったか飯田さんだったか、誰かに「歩きますから、大丈夫です」と言ったことだけは思い出せるから、きっとあの距離を歩いて帰ったんだろう。明日辺りに筋肉痛になっているかもしれない。
 けれど、今はそんなことはどうでもいい。
 喪失感で押しつぶされそうな胸の中をからっぽにしたい。
 今は、何も考えたくない。
 眠りで思考を塗りつぶす。
 ――いばら姫みたいにずっと眠っていたい。そして、永い眠りから醒めた時には、この想いも思い出も、全てを忘れられたらいい。
 私は体をよこたえて、涙すら枯れためを、ゆるやかにつむった。










write:2008/11/29 up:2009/08/08