揺れる波間、かたる静寂 19

 いつもよりずっと重たいまぶたを、ゆっくりとあける。いつもの通り伸びをして、カーテンをひらく。広い窓から差し込む色は、昨日よりもくすんだ色をしていた。
 ああ、朝だ。ぼんやりと、いつもの流れでベッドサイドのテーブルの上、目覚まし時計の近くを手探る。そして、指先がいつもの感覚に触れないことに一瞬だけ違和感を感じて――はた、と、思い出した。思い出して、しまった。
 バレッタは、海馬くんの手元に舞い戻ったのだ。彼の中の記憶は戻らぬままに。

「……そ、っか」

 私はそっと手を自分の方に引き寄せて、左手で右手を包み込んだ。ぽっかりと、大きな穴があいてしまったような気分だった。自分のものではなかったにしろ、何年も欠かさず身につけたものが、なくなってしまったのだから。

「ちょっと寂しいけど、でも、慣れなきゃね」

 自分に言い聞かせるように呟いて、もう一度伸びをする。ベッドから降り、立ち上がった。なんとなく、そっとまぶたに手の甲を当ててみると、まだかすかに、熱を帯びていた。

 いつもより一本遅い電車で学校に向かう。特に理由があるわけではなく、ただ、なんとなくそうしたというだけ。いつもと同じ道を、いつもと同じように歩く。何か大切なものがぽっかり抜け落ちたような気分だけれど、この気分も、きっといつか癒えるはず。だから大丈夫。
 ずっと付けていたバレッタもないけれど――いや、むしろ、ないからこそ私はあの過去を忘れられる。今はまだ違和感を感じるけれど、いつかこの傷みも過去になる。私の持っていた思い出も想いも、すべてあのバレッタにのせて、置き去りにしたんだから。
 何時か風化して、消えてなくなってくれる。

「おはよ、杏子」
「あ、おはよ――?」
「なあに?」

 振り向くと、杏子の眉が顰められる。けれど私はそれに気付かない振り。大丈夫だよ、私は大丈夫だから気にしないで、ね、杏子。
 私の顔を見て、杏子は顰めていた眉をゆがめた。少し悲しげな表情。杏子がそんな顔しなくて良いんだよ。だってこれは、私の問題なんだから。瀬人くんも誰も関係ない。私だけの、問題。

「バレッタ、外したのね」
「……うん。返したの、元の持ち主に」

 私がそういうと、杏子は少しだけ目を伏せて、ぽすんと私の頭に手を乗せた。

「無理するんじゃないわよ。何があったのか言えとは言わないけど。何があっても私はの味方だから」

 ぽんぽんと二、三回頭を撫でて、杏子の手が離れていく。あたたかくてほっとする優しい手だ。

「――ありがと、杏子」

 だから私は、こんなにも優しい気持ちになれる。










write:2008/12/26 up:2009/10/29