揺れる波間、かたる静寂 20

 6限の終わりを告げるチャイムが鳴って、先生が授業の終わりを告げて立ち去っていく。がやがやと一気に騒がしくなった教室の中、何処か自分が遠くに消え入りそうな気分になった。気を抜くと、すぐに暗い気持ちになりそうになる。朝からずっと私を気にしてくれてる杏子を心配させないためにも、早く元気になろう。
 自分に言い聞かせながら、筆箱にシャーペンを戻してカバンに荷物を詰め込んだ。カバンの中に入れていた携帯が、着信かメール受信を示して明滅している。この携帯には、送り損ねている、突然泣いた私を心配したモクバくんからのメールへの返信が眠っていた。
 ……もう潮時だ。申し訳ないけれど、今日、家に帰ったら返そう。「もう協力できない」と、一言伝えるだけの、簡素なメールを。
 携帯を開いて受信メールの確認をしようかとカバンの中に手を入れたところで、先生がちょうど入ってきた。すっとカバンから手を抜いて、ぼんやりと先生の話に耳を傾ける。先生の話は、何一つ頭に残らなかったけれども。
 SHRが終わって、杏子と私は連れ立って人の多い廊下を歩いていた。

「前から『映画行こう』って話はしてたけど……、大丈夫なの? 無理ならまた今度でいいのよ」
「大丈夫だよ。ほら、行こ!」

 私を心配してくれてるのか、渋る杏子の背中を両手で軽くトンと押す。大丈夫だよ、いつもと同じ生活をしていれば、きっとすぐに痛みは癒えるから。だから今は、私の馬鹿に付き合って。
 私の気持ちを汲んだのか、それとも私が引くつもりがないと理解しただけなのか、杏子ははぁ、と溜息を吐いた。

「あーもうわかったわ、ならとことんまで付き合わせるわよ。覚悟しなさい!」
「了解です、タイチョー」

 芝居がかった返事をしながら、靴箱に上靴を入れてローファーを取り出す。杏子が「タイチョーって何よ、タイチョーって」と、笑っていた。
 玄関から一歩外に出ると、曇っていた朝とはうってかわって眩しいくらいの太陽が顔を出していた。私の気持ちとは裏腹に明るい空。思わず眩しさに目を細める。

「あら、晴れたわね。朝は傘持っていこうか悩む天気だったのに」
「すっごい快晴だね。今日、日焼け止めちょっとサボっちゃった」

「こんなに晴れるならもっとしっかり塗ったのになぁ」「まあ、一日分くらい平気よ、きっと」などと、杏子と言葉の応報を続けながら、歩く。目指すは歩いて20分くらいの映画館だ。今向かっている映画館は今日がレディースディで、いつもより500円も安く映画が見れる、財布に優しい日となっている。

様。お時間よろしいですか」

 いつものように校門を出たところで、そう、呼び止められた。ぼんやりとそちらに視線を向けると、予想通り磯野さんがそこにいた。
 ……なんだか、既視感みたいなものを感じる。前にも、こんなこと、あった気がする。

「……あの、モクバくん、ですか?」

 ずっとメールの返信をしていなかったから、心配して磯野さんにみてくるように頼んだのだろうか、と思ったとおりに口にした。すると、磯野さんは「いえ、」と短く否定の意を示した。

「海馬様が、様を呼べと申されたのです」

 杏子が「海馬くんが?」と驚いたように目を見開いたのが見えた。私は、目の前が真っ暗になったような、真っ白になったような、訳のわからないぐちゃぐちゃな感情がわきあがってとまらない。
 ねえどうして。どうして、今更私のことを気にするの。

「あの、私、今日はちょっと、これから用事があるんです」
「で、ですが海馬様が……」
「磯野さんごめんなさい、今日は無理なんです」

 歪みそうになる表情は堪えて、出そうになる「会いたくない」という言葉は飲み込んで、私はゆっくり吐き出した。
 ……「今日は」じゃなくて、「もう」無理なんです。会いたくないんです。ごめんなさい。

「行こ、杏子」
「え、いいの? 
「だって、モクバくんからならわかるけど、海馬くんに直接呼び出されるような用件はないもん」

 そのまま、磯野さんに「ごめんなさい」と一礼してから歩き出す。磯野さんは、きっと、海馬くんの命令なら全てきちんとこなそうと考えているだろうけれど、これだけは譲れなかった。
 杏子がついてきているかの確認もせず歩き続ける。多分置いてきちゃった、遠くの方で磯野さんと杏子の話し声がする。
 だんだん早足になってきた。心臓が、痛い。



 低い声に名前を呼ばれて、突然、左手首を掴まれた。
 がくんとよろめきそうになりながら後ろを振り返ると、スーツに身を包んだ海馬くんが、私の目の前にいた。
 ねえ、今、何て。何て言ったの、海馬くん。

「か、いばくん……」

 声が掠れる。どうして、と問いかけようとした言葉は、咽喉の奥でぐるぐる回って音にはならなかった。

「来い」

 有無を言わさず、私の手首を掴んだまま、海馬くんが歩き出した。痛いぐらいの強さで掴まれた左手首が、発熱でもしてるんじゃないかってくらい熱くなった。

「私、これから杏子と、用事が」
「後日にしろ」

 背が高いだけあって、海馬くんの歩くスピードは早い。転ばないように小走りになりながら、「待って」と言ってみたが、海馬くんは私のほうをちらりと見ただけで、立ち止まろうとする気配もない。小さな声で、「腕、痛いよ」と呟いてみたら、手首を拘束する力が少しだけ弱くなった。……離しては、くれなかったけれども。
 転びそうになりながら海馬くんに引かれていると、驚いた表情の杏子と目があった。話がしたい、と海馬くんのほうを見ても立ち止まってくれそうにない。すれ違い様に、「ごめん、今日無理っぽい」と告げると、杏子はそれには言及せず、「頑張んなさい。でも無理するんじゃないわよ」と微笑んだ。
 私も笑って返そうとしたけれど、上手く表情を変えられず、ちょっとだけ歪んだ笑顔になってしまった。

「乗れ」

 やっと手首が開放されたかと思うと、何度か送ってもらう時に乗せてもらった、黒塗りの高級車のドアが磯野さんの手によって開かれた。前は車、左は磯野さん、後ろには海馬くん。右に逃げても、多分すぐ捕まってしまうだろう。

「あの、」
「早く乗れ」
「……はい」

 何も言えずに、車に乗り込んだ。ふかふかの椅子に体を沈めても、私の体はびっくりするくらい凍りついたままだ。
 隣に海馬くんが腰掛ける。そつのない優雅な仕草。車のドアが閉まると、沈黙が降りてきた。磯野さんが乗り込んで、車が発車するけれど、車内の沈黙は守られたままだった。
 ……痛い、よ。この沈黙も。海馬くんの隣にいることも。全部、痛いよ。










write:2008/12/13 up:2009/11/19